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読書感想文/マーケティング/エッセイなど。基本的にフィクションです。

マーケティングと共に フィリップ・コトラー自伝

『マーケティングと共に フィリップ・コトラー自伝』を読んだ。
帯に記された謳い文句にふさわしい内容だと思う。

 

◆「コトラーの原点に迫る最高の教科書」
原点とはつまり、著者の生い立ちや思想の転換期を意味するが、著者本人の言葉で自身の家族、青年時代、シカゴ大学からMITへの移籍、奥様への誘い文句などが綴られている。

もともとは経済学を専攻していたコトラーが、どのような経緯でマーケティング分野へ移ったのかも興味深い。
コトラーのマーケティング観が掘り下げられていることこそが、本書が「原点」に迫っていると言える大きなポイントではないだろうか。マーケティングをサイエンスと捉え、狭義にとらえられがちなこの分野の対象拡大を図った、コトラーのマーケティング観を表す言葉がある。

"マーケティングと聞いて何を思い浮かべるだろうか。中略。一言でいうのは難しいが、企業業績の向上と顧客の価値・満足を創造することで人々の生活の改善を目指す実践的な学問であると思っている"

 

 

◆マーケティングという学問への強い興味
本書から得られたものをあげるとするなら、マーケティングへの強い知的好奇心だろう。商業的なイメージの強いマーケティングだが、本書を辿れば経済学から派生した学問であることがわかる。
一般的にはプロモーションの側面がフォーカスされがちだが、生産者から卸売会社を経て、小売業に至るまでに価格が実際にどのように決定され、企業の広告や販売促進などで需要曲線がどのようにシフトするかを分析する応用経済学のひとつだ。

マーケティングが専門書に登場するのは1910年頃。当時の経済学者が商品の売買の成立が需要と曲線と価格だけで決まるのではなく、流通機構や広告宣伝などの経済活動を見逃してきたことに気づき、問題意識が芽生えた。マーケティングの歴史はここから始まったという。この説明は、経済学を専攻していた僕にとって腹落ちするものだった。

R→STP→4P→I→Cといったマーケティングプロセスの一端も本書から得られるエッセンスだ。
「R」市場のリサーチ、「STP」異なる顧客層を区別するセグメンテーション、どの顧客層をマーケティングのターゲットとするか決定するターゲティング、選定したターゲット市場におけるポジショニング。選択した市場を攻略するための「4つのP」計画の策定。それを「I」インプリメントし、最後に4Pを改善するためのフィードバックを集める「C」コントロールの段階がある。

しかし何より、コトラーという人間への尊敬こそが本書から得られる一番の気付きではないだろうか。貧困の撲滅を決意するなど、社会問題に対する強い姿勢に圧倒されると思いきや、日本の骨董品集めのコレクション趣味に親近感を抱き、はたまた文化的教養を求める生活に刺激を受ける。ジェットコースターのように彼の人格に心が振り回される。

 

◆読感
マーケティングという学問をもっと学びたいと思わせてくれた。
今日のマーケティング部門には限られた機能しか残されていないというのが著者の見解だ。コミュニケーション、価格決定、ブランディングと差異化、消費者行動。私見を述べさせてもらうなら、実態はさらに狭いように思う。
本来であれば新製品開発、イノベーション、メディア、チャネル、市場戦略、サービス、データマイニングなどは、マーケティングの責任者が見るべきとも著者は言う。結局のところ、顧客を理解し、顧客が何を望み、どこへ向かっているかを把握することを考えると、誰かがマーケティングのあらゆる活動を統括する必要がある。
僕はデジタルという小さな領域でしかマーケティングの経験を積んでいない。マーケティングによって人々の生活の改善を目指せるなら、深く学ぶ価値のある、エキサイティングな分野だと思う。

土曜日の喧騒と日曜日の静寂

「あんたたち、耳を澄ますなんてこと、しないでしょ」と断定口調で言われたことを覚えている。
大学生の頃、スペイン語の講師から言われた言葉だ。
京都の私立大学の1コマを教える彼女は、齢五十を過ぎた白髪の日本人で、どこか変わった人だった。
 
何回目かの授業で、僕が辞書を持っていないことを告白すると、「あんた、辞書を持たずにどうやって今までスペイン語の授業を切り抜けてたわけ?」と驚いて問いただしてきた。
「センスで」と調子に乗った言葉を返すと、とにかくツボにはまったようで、しばらくお腹を抱えて悶絶していた。
しばらく呼吸を置いてから、「面白いわね。座布団一枚あげる」と言い放った時には教室が多少ざわついた。座布団って一体なんだ?
「私の授業では、面白い発言をした人に座布団をあげているの。座布団が10枚溜まると、私とランチに行く権利がもらえるの。もちろん、私の奢り。ただし、こんなおばちゃんと2人でランチなんて嫌でしょうから、友達を1人、連れてくる権利もあげるわ」
もちろん、架空の座布団の話だ。
 
ついに座布団が溜まった人は見たことがない。むしろ、この発言以降、座布団の話は一度も出てこなかった。
 
そんな講師に言われた、冒頭の一言だ。「あんたたちみたいなもんは、いまどき、耳を澄ますなんてことしないでしょう」とやたらと決め付けるように言われたので、ムッとした僕は「ありますよ」と毅然と言い返した。
 
「あら」
「夜な夜な、鴨川のほとりに赴いて、川のせせらぎに耳を澄ましています」と僕は嘯いた。もちろん、架空の話だ。
後ろに座る女子生徒が吹き出す音が聞こえた。しかし、講師は思いの他、関心していたようで、
「あら、偉いじゃない。あなた、偉いわね」と褒めてくれた。
 
 
東京に来てからはどうだろうか。思い起こすと、耳を澄ますといった行為はしていないかもしれない。京都に住んでいた頃は、鴨川の側を歩いて自宅まで帰ったり、寝静まった夜の街を自転車で走り抜くなど、静寂の中に身を置く時間が多かったように感じる。そう思うと、あながち過去の自分の発言は嘘ではなかったりする。
 
土曜日に浴びるほど酒を飲み、声が枯れるほど歌い、鼓膜がビリビリと震えるほどの喧騒に飲み込まれた後の日曜日は、ゆっくりと過ごしてみようかと思う。
熱い紅茶を入れて、大好きな音楽に耳を澄ます。歌手の息継ぎのポイント、裏声と表声が切り替わる転換点、バンドのベース音。歌うことなく、ただただ耳を傾ける。座布団に腰を据えながら。
そんな日曜日も悪くないかもしれない。
 
グレートギャツビーを読んだ。
豪華絢爛なパーティーを連夜繰り広げるギャツビーを思うと、静寂な時間の大切さが身にしみる。
 

世界最高のリーダー育成機関で幹部候補だけに教えられている仕事の基本

ヒカリエの前に季節外れの巨大なクリスマスツリーが現れ、薄手のジャケットでは凌げない寒さが底を覆い、駅前に酔っ払いが増えたら、もう師走だ。
 
まだ11月なのだが。
 
縺れる舌ともたつく足元とよれよれの背広が亥時の歩道を埋め尽くすなか、ポケットに手を突っ込んでオフィスから駅へと突っ切って行く日々を繰り返していると、数年前、同じように帰途の最中、色々な悩みや焦りが絶えず渦巻いていた過去の自分を、つい思い出してしまう。
 
おそらく多くの人も経験している感情だと思う。
「自分はこのままでいいのか」「将来どうしよう」「どうなりたいのか」といった、もやもやとした焦燥感。自己嫌悪に押しつぶされそうになりながら、心もとない冷えた帰り道を幾度となく歩いたことを覚えている。
 
ありがたいことに、ここ最近はそういったセンチメンタルな感情に苛まれることは(ほとんど)なくなった。年のせいなのかもしれないが、自分としては一応、それなりに葛藤や苦難を辿ってきたし、達成や様々な経験を経ているわけで、それを単に年月の積み重ねのせいにしてしまうのは、なんとなく虚しい。
 
仕事に忙殺されれば、そんなセンチな悩みなんて顔を出す暇もない、という意見もあるかもしれない。
確かに、息もつかないくらい慌ただしい時期の中ではそのような悩みはなかったように思う。この種の悩みは、余裕のある毎日の中で生じる、心の隙間に巣食う靄のようなものだ。
しかし、忙殺に靄を紛らすその行為は、忙しさと充実感を混合させてしまう、一種の勘違いといった側面も否めない。忙殺の時期がひと段落つくと、得てして強烈な虚無感とも言えるリバウンドが押し寄せてくる。そこで焦燥の渦巻きに飲み込まれるというパターンが割りかし多いような気もするので、そういった意味では「仕事に忙殺されれば悩みなんて生まれないcampaign」は、将来を憂う悩みの根本的解決には至っていない。
 
仕事に忙殺されるほど量をこなせば、大抵の場合、人は成長する、そして成長すれば違う景色が見える、といった意見もあるかもしれない。違う景色が見えるようになれば、将来やキャリアの悩みなんて、たいした問題ではなくなる、と。
果たして忙殺されるほどの仕事量は、人の成長を促すのだろうか。これは仕事の総量を、時間と捉えるか機会と捉えるかの違いだろう。
僕は基本的に長時間労働には懐疑的なスタンスだ。だが、仕事の量がやがて質に転化するといった話は頷ける。なぜなら(自ら)量をこなす人の裏側には、能動的に、主体的に、そして情熱的に仕事に取り組む姿勢があるからだ。情熱がある人は、業務に対して深いコミット意識を持つ。コミット意識を持つと責任感が生まれ、自分の思考や判断に注意深くなる。それはそのまま深い思考力につながる。この繰り返しと積み重ねが加速度的な成長を促す。量が質に転化するするというのはつまりそういうことで、反対に、いたずらに長時間労働を強いても強いられても、そこに情熱がなければ圧倒的な成長、ひいては突き抜けた人材にはなれないと思う。成長によってもたらされる「違う景色」は情熱を持って仕事をした人の特権であって、単に仕事に忙殺されている人には縁のない風景だ。
何より、単純な労働時間が成長につながるというのであれば、世間にはもっと優秀な人がゴロゴロいてもいいはずだろう。
 
 
さて、話を戻すと、僕がそういった「将来やキャリアに対する悩み」に付随する焦燥感をあまり感じなくなったのには、ひとつきっかけがある。
自己認識に注意を払うようになったからだ。自己に対する気付きとも言えるし、自分を見つめる行為とも言える。
自己認識に意識を置くようになったのは、『世界最高のリーダー育成機関で幹部候補だけに教えられている仕事の基本』という本による影響が大きい。
 
曰く、"人は自分の意識下にあることしかコントロールできない”という。逆説的にいうと、自分自身を意識下におけばコントロールできるはず。意識下に置くには、まず自分を知ること。何を知ればいいのか。それは価値観であったり、他人から見られている自分だ。
 
自己認識の大切さを表すエピソードとして本書では下記のようなエピソードも交えている。
 
20世紀最高の経営者とたたえられる前GE会長のジャック・ウェルチ氏が引退した際、多くのインタビューを受けました。〜
メディアからの「ウェルチさん、あなたはなぜ20世紀最高の経営者と言われるようになれたのですか」という質問に対して、ウェルチ氏はたった一言、「Self-awareness」(自己に対する気付き)と答えたのです。
 
現GE会長のジェフリー・イメトル氏も「リーダーシップとは、終わりのない自分探しの旅である」と言っています。
 
自己認識といっても、就活時に行う自己分析とは少し様相が異なる。自分を知るには「自分が認識している自分」と「他人が認識している自分」の二つがあることを知る必要がある。
僕は写真や動画に映る自分が大嫌いなのだが、それというのも、ある種のナルシズムというか、イケていると思ってレンズに収まっていたはずが、どうしようもなく垢抜けないゴミのように映る自分を目の当たりにしたときに感じる、衝撃的な負のギャップにほとほと嫌気がさすからだ。
とはいえ画面に映る自分は、そのまま他人から見られている自分なのだから、周囲からの印象は画面に映る自分、といったことなのだろう。
大切なのはどれだけこの二つ(「自分が認識している自分」と「他人が認識している自分」)を一致させられるかだ。負のギャップにショックを受けている僕はまだまだ自己に対する気付きが弱いということになる。
 
有名なジョハリの窓の話に例えると、自分も他人も知っている自己の「解放の窓」がある。優れたリーダーは解放の窓の領域を広げようと努力する。他人が認識している自分と、自分が認識している自分の領域が広いほど、自己開示が進んでいる証拠だからだ。
 
簡単に「他人から見られている自分」を知るには、単純に他人からフィードバックをもらうことが有効だ。「自分の仕事の進め方についてフィードバックをいただけませんか」と。そして、定期的に振り返りを行う。自分の正体は結局のところ周囲のPerceptionでしかない。
 
自己認識が深くなると、思考の出発点が「このままでいいのだろうか」といった悩みからではなく、「次のチャレンジは何をしようか」といった次に向けての準備から始まる。振り返りを日常的に行う習慣がついているから、「自分はどうしたいか」といった問いかけにはすでに返答済みのステータスになっているのだ。
なんとなく次にやるべきことが見えて来る。そうすると次に向けてのチャレンジの準備も楽しくなるし、なによりワクワクする。
 
残念ながら僕はまだまだその域には達しておらず、周りにフィードバックを求めた際に、「冷たい」といった返答が相次いだ時には心が折れてしまった。
それ以降、フィードバックは求めていない。
 
出典:世界最高のリーダー育成機関で幹部候補だけに教えられている仕事の基本

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リモーネの温度

 吹きさらしのホームに、冬が訪れた。京都府の端、田舎町。駅には、風を防ぐものなど、ない。右から左へ通り抜ける小言のように、風は自由に走り抜ける。凍えるように寒く、手袋や、それといった類のものを持ってこなかった自分自身を、僕は呪った。
 田舎の駅で電車の到着を見るのは稀だろう。つまりは、だ。電車を逃すということは、寒さとの長い格闘を意味する。
 12月の寒空が頭上を覆う。僕は後ろを振り返ってみた。その行為に、たいした意味はない。そこで僕は、二つの見慣れない物を発見した。ひとつは、柱に貼られた迷子の猫の張り紙。もうひとつは、紅茶の缶を両手に持ち、暖を取る”彼女”だった。彼女は誰だろう?見慣れない顔だった。田舎町の、毎朝の通学時では、目にする面々はいつも同じだ。彼女は、いつもの面々にはいない、見慣れない存在だった。引っ越してきたのだろうか?同学年に見える黒髪の制服姿を、これまで見逃していたはずもない。高くもなく、低くもない背丈に、ショートカットの黒髪。豆のように小さな顔とは対照的に、凛とした大きな瞳は、閏みをたたえていた。その存在は、見窄らしい、吹きさらしの駅の中で、異質だった。彼女はまるで、雪の結晶のように美しかった。
 風が頬を刺すように吹く。どのくらい時間が経っていたのだろうか。気がつくと彼女は既に、いつの間にか到着していた電車の中で、いつの間にか座っていた。一体いつの間に、電車は到着していたのだろう。見惚れてしまっていて、全く気づかなかったのかもしれない。ホームに呆然と立っていた僕は恥ずかしくなり、いそいそと、彼女とは別の、隣の車両に乗り込んだ。

 教室に着くなり、僕は宮本の席まで一直線に歩き、先ほど目撃した制服の彼女の容姿を一通り説明し、彼女に関すること(それはどんなに些細なことでもよかった)について、知っていることがないか、訪ねてみた。宮本は、“そういうこと”を訪ねるのに、もっとも相応しい相手だった。
「彼女はどの駅で降りたんだい?」宮本が訊ね返した。立派な顎は、今日も健在だ。
「分からない」僕は言う。
「なぜ?」
「なぜなら、僕は彼女よりも先に降りたから」
「まあ」宮本は宙を見つめるようにして、続けた。「電車の路線から推測するに、彼女は隣町のY高校の生徒じゃないかと、僕は思うよ」
「なんで分かるんだ?」
「僕だって100%確かじゃないさ。けど、紺色の制服と、駅の情報と、君が説明する彼女の容姿を総合すると、ほとんどの確率でY高校だと思うよ」
 宮本の説明にはいくらかの説得力があった。少なくとも、高校一年生の未熟な僕の頭には、説得力があるように聞こえた。
「宮本、彼女の容姿は関係あるのか?」 僕は少しだけ気になった点を指摘してみた。
「可愛かったんだろ?君のその興奮した様子から察するに」
「あぁ、とても可愛かった。肌なんて、透き通るように透明なんだ」
「ほらね」宮本は満足げだ。
「ほらね、じゃなくてさ。どう関係があるんだよ」
「Y高校は女子のレベルが高いことで有名なんだ。もちろん、ルックスのね」
 なるほど、その一言で、宮本の推理には確固たる根拠ができたように思える。
 彼女の通う高校がわかった僕は、安心した。名前も歳も分からないのに、さらには宮本の推理が確かな情報かも分からないのに、彼女の高校の目星がついたことで安心してしまうなんて可笑しなものだったが、とにかく僕は安心したので、席に座り、エナメルバッグから教科書を取り出し始めた。
 隣に座る宮本がボソッと付け加えた。
「Y高校は、貞操が緩いことでも有名だけどね」
「え?」僕は思わず聞き返した。全て、聞こえていたのにも関わらず、だ。
「丘の上のヘルスって呼ばれているらしいよ」宮本はニヤニヤしながら言う。
「丘の上のヘルス?なぜ?」
「Y高校が小高い丘の上にあるからさ」
「そうじゃなくて、なぜ、ヘルスなのさ?」
「貞操が緩いからさ」
 言葉を失ったところで、チャイムがなり、国語講師の小島が教室のドアをガラガラと開けた。

次の朝も、吹きさらしのホームで、彼女を見かけた。彼女は手袋をしていなかった。僕は、昨日の呪いのおかげか、手袋を忘れていなかった。だが、驚くことに、手袋をしている僕よりも、彼女の方が暖かそうに見える。恐らく手に持っている、ホットの紅茶缶のおかげだろう。両手にすっぽりと収められた、黄金色の紅茶缶を見ていると、リモーネの温度がこちらまで伝わってくるようだった。
 僕の目は、雀のように辺りを舞い散らかした。彼女をやたらと凝視して、気味の悪い人だと思われたくなかったからだ。視線の置き場所に困っていると、壁に貼られた張り紙を再び発見した。迷子になった猫を飼い主が探している、という張り紙だ。どうしようもないローカル感にやるせなさを感じたが、町を挙げて一匹の猫を探し出そうとするその暖かさは、嫌いではなかった。ホームの金網の向こう、手を伸ばせば届きそうな距離に、焦げ茶色に禿げた田んぼが広がる。
 気がつくと、電車はいつの間にか到着していて、彼女はどこにもいなかった。

「あんた、細いわよね」
 購買部の斎藤さんは、僕が差し出した120円に目もくれず、話し始めた。お昼ご飯までお腹が持たない高校1年生の僕や、その他の生徒たちは、頻繁にこの購買部にやってきては、菓子パンやおやつを買っていく。斎藤さんは購買部で働く中年の女性だ。最近になってこの学校にやってきたので、僕はあまり斎藤さんのことを知らなかった。
「はぁ」早くイチゴジャムパンをくれますか、とは言えなかった。背後の棚からひょいっと、取ってくれるだけでいいのだ。
「もっと食べなさいよ」
 僕がオーダーするイチゴジャムパンを差し出さない代わりに、彼女は僕にもっと食べることを強要してきた。白い割烹着のような制服を着る斎藤さんの体型は、太っているようにも痩せているようにも見えない。
 購買部は空いていた。
「あんた、部活入ってるの?何部?」
「サッカー部です」
「あんた、サッカー部なの?もっと筋肉つけ方がいいんじゃない?」
 斎藤さんはようやく、120円を手に取った。背後の棚からイチゴジャムパンを取る気配は、まだ無い。
「そりゃあ、筋肉はつけたいですよ。でも、全然体重増えなくて」
「正しいトレーニングと正しい栄養を取っていないからよ。私から言わせりゃ、この学校のサッカー部の連中なんてみんな貧相な体しているけどね。あんたは特別よ。貧相を通り越して、貧弱。もやしのほうが強いんじゃないの?」
「僕は、もやしと喧嘩したことがないのでなんとも…」
「とにかく、こんなレーズンパンなんて食べていないで、もっとタンパク質を摂りなさい。鳥のササミとか、プロテイン飲むとか」
「イチゴジャムパンです…」
 斎藤さんの言うことはもっともだった。僕はもっと大きく、強くなりたかった。理由は二つ。ひとつは、サッカー部で生き残るため。フィジカルが弱い僕は、よく当たり負けをしていた。テクニックには若干の、いや微々たる、自信はあるものの、フィジカルが圧倒的に弱いため、接触の多いフィールドで試合をこなせる自信がなかった。もっとも、テクニックといっても、リフティングの数をこなせるくらいのものなのだが。
 ふたつには、見栄えを変えたかった。駅で見かける彼女に見合うような、立派な体躯の男になりたいと思ったのだ。彼女と肩を並べて歩いても、恥ずかしくないような男に。
「筋トレとかは、しているの?」斎藤さんはカウンターに頬杖をついて尋ねた。もう、パンを寄越す気は、さらさらないようだ。
「一応、部活で」
「どんな?」
「腕立て伏せとか、腹筋とか。あと、サーキットトレーニングを」
「はんっ」斎藤さんは鼻で笑った。「まあ、持久力という意味で体力はつくかもしれないけどね。でも筋肉はつかないわよ。重りをあげないと。鉄を持ち上げて、人は強くなるのよ。部活は酷よね。毎日長時間練習して、持久力トレーニングをして、ろくに栄養も休憩も取らないんじゃあ、体は痩せ細るわよ。あんた、ジムに通いなさい」
 半分以上、言っていることを理解できなかったが、いくつか分かったことがある。斎藤さんは僕にジムに通うことを勧めていること。そして、斎藤さんはもう、パンを寄越す気がないということ。サッカー部に入部して8ヶ月近くが経つが、部活の筋トレで体格が変わった形跡はない。そういった意味で、斎藤さんの主張には、ある種の説得力があるように思えた。立派な体格を身につけるには、ジムで筋力トレーニングを行う必要があるのかもしれない。しかし、今のしんどい部活と並行してジムに通えるのだろうか。
 僕は、駅で見かける彼女の顔を浮かべた。(恐らく)Y高校に通う、(恐らく)僕と同学年の、(確実に)愛らしい顔の彼女に振り向いてもらうために、僕は変わらなければいけない。潤みをたたえた目を思うと、心が奮い立つような気がした。

 12月の暮れは早い。午後6時にもなるとあたりは暗くなり、部員たちはグラウンドを片付け始める。湿り気を帯びた夜の空気が、体を濡らす。半分に区切られたグランドの向こうでは、野球部員たちがまだ、白球を追いかけている。平凡な私立高校の、平凡な練習風景だった。
 3年生のキャプテンが「お疲れした」と叫ぶと、全員で同じ言葉を叫び返す。解放を意味する、安堵の瞬間だ。
「水島、左足のキック、もっと練習しような」2年生の先輩が肩を叩いていった。僕はそれを励ましと捉えて、感謝したものの、同時に、少し惨めな気分になった。紅白戦の最中、利き足とは逆の、左足でクリアしようとしたボールはほとんど前に飛ばず、失点に結びついてしまったのだ。
 着替えと談笑を終えると、僕たち1年生部員は駅に向かい、それぞれの帰路につく。ただし僕だけは、寄るところがあった。

 昼間に購買の斎藤さんに教えて貰ったジムは、我が家の最寄り駅の近くにあった。どっしりと構える、臙脂色の大きな建物を見上げる。煌々と灯る看板のネオンと、2階の窓ガラスから透けて見える、ワークアウト中の会員たちに圧倒されそうになったが、覚悟を決めて、エナメルバッグと疲れた体を引きずってジムに入った。自動ドアをくぐると、受付の女性が笑顔で迎え入れてくれた。愛想の良い対応に安心したが、その瞬間、僕は申し込みに必要と思われるものを何も持ってきていないことに気づいた。心が乱れるのを感じつつも、ジムの見学をさせてもらえないかと、礼儀正しく聞くことができた。彼女は喜んで案内してくれた。
 大きな施設だった。3階建ての建物には、ロッカーとジムエリアの他に、プールも設置されている。ロッカーを通り、マシンエリアを案内されている間に、僕は彼女に申し込みに必要(そう)な書類を何も持ってきていないことを正直に打ち明けた。
「今日は体験ということで、このまま施設をお使い頂いてよろしいですよ。申し込みは次回で結構です」と、優しく応えてくれた。薄汚れたエナメルバッグを肩にぶらさげ、サイズの合わない学生服を着る、疲れた表情に同情してくれたのかもしれない、なんて自虐的な考えが頭をよぎった。
 フリーウェイトのエリアに案内された。屈強な男たちが筋肉を露出させて、体から蒸気を発しながら己の鍛錬に励んでいる。目の前に広がるマッチョイズムな世界に、これから足を踏み入れるかと思うと、急に億劫になった。これで案内は終了です、といささかドライに告げると、女性は営業用の笑顔で去って行ってしまった。心強いガイドに去られ、いささか場違いなエリアに取り残された僕は、心細くなり、逃げるようにロッカーに戻った。部活で着ていた運動服に着替えものの、気後れとも気恥ずかしさとも言える感情が胸に横たわる。高校1年生で、貧弱な僕に、ここは場違いではないだろうか。
 両手で紅茶を持つ、駅の彼女の姿が頭に浮かんだ。不思議なもので、記憶の中に残るリモーネの温度が、ロッカールームで怯える僕を勇気付けてくれている。彼女の横に並び立つ、屈強で堂々とした未来の自分。そうだ、変わらなければ。僕は一歩を踏み出し、再びフリーウェイトエリアに向かった。
 さて、足を踏み入れたまでは良いものの、何から手をつけて良いかわからない。両手の置き場所さえ気になってしまい、不遜に見られないように、とりあえず体の後ろで組んでみる。途方に暮れていると、女性がベンチプレスをあげている姿が目に入った。僕には到底、あげられそうにない重りが両端に付いたバーベルを「ハッ!ハッ!」と声をあげながら何回もこなしている。すごいなー、と感心していると、あることに気づいた。彼女だったのだ。

「あんた、本当に来たんだ」斎藤さんは汗をぬぐいながらいった。
「はい。ただ、斎藤さんがいるとは思っていませんでした」僕は驚きのトーンを混じえて言う。Tシャツ姿の斎藤さんの体は、シェイプされていることが見て取れる。細すぎず、太すぎず、バランスのとれた体型だった。
「で、何しにきたの?」
「えっと。斎藤さんがジムに通えと言うから」
「はんっ」彼女は鼻で笑った。それからラベルにBCAAと書かれたオレンジ色のボトルを口に含む。
「私が聞きたかったのは、ジムに来た目的よ」
「体を変えたいんです」
「なるほど。サッカーのため、よね。違う?」
「半分は正しいです」
「もう半分は、なによ。あんた、高校生のくせにもったいぶった喋り方するんじゃないわよ」
「すいません」
 僕は斎藤さんに、駅で見かける彼女のことを説明した。彼女に見合う体格の男になりたい、もちろん、彼女が現時点で体格的に僕より勝っているであるとか、そういったことではないのだが、見惚れるような彼女に振り向いてもらうには、何かを変える必要があることを、僕は正直に話した。何故だか分からないが、斎藤さんには全てを話してしまいたくなる何かがあった。
「あら。それは興味深いわね。あんた、それ先に言いなさいよ。部活とか関係ないじゃない。いやらしい」
「すいません」
「駅で見かけた彼女のためにウエイトトレーニングを始めるなんて、なかなかトチ狂っているじゃない。面白い。私、あんたのフィジカルコーチに、なってあげてもいいわよ」
 ウエイトトレーニングを始めるきっかけを与えたのは他ならぬ斎藤さん自身だったが、僕は黙って、斎藤さんに手を引かれるがまま、ベンチプレスの台に近づいていった。
「ベンチプレスは試したことある?」
「マシンのやつならやったことありますけど、このタイプのものは無いです」僕は眼下に横たわる黒皮のベンチと鉄の棒を見下ろした。
「あぁ、マシンとは全く違う獣よ、これは」斎藤さんはニヤリと笑った。
「マシンタイプのものは、胸だけに狭く効くの。けど、このフリーウェイトのベンチプレスは、まあ、胸のためといえば胸なのだけど、その他の上半身の部位も鍛えられるのよ。上半身を鍛えたかったら、これね。まずは大きな筋肉から始めるべき。私に言わせれば、あんた最初はベンチプレスとデッドリフトをやっておけば上半身は十分よ。あとはスクワットで下半身を鍛えれば上出来」
 デッドリフトの意味がいまいち分からなかったが、斎藤さんが3つのエクササイズにしか触れていないことに気づいた。僕はたくさんの器具が設置された室内を見回した。
「たった3つだけですか?」
「そうよ。まずは大きな筋肉にフォーカスするの。それが、あんたの体を大きくするんだから」
「他の器具やマシンはどうなるんですか?」
「気にしなくていいわよ、そんなもん。ほとんどはシェイピングのためにあるんだから」
「シェイピング?」
「なんていうのかしら。筋肉を理想の形に仕上げたいときに使うの。今は心配いらないわ。あんたはもやし以下なんだから、まずは体を大きくさせることに集中しなさい。大きな筋肉を徹底的に鍛えるの。とりあえず、見本見せるわね」
 斎藤さんはベンチに仰向けになった。
「バーが額の位置に来るように寝るの。バーを持ち上げたら」そういって斎藤さんは軽々しくバーを持ち上げる。両端には20kgずつ、重りがついている。
「肩甲骨を絞って、肩がベンチから浮かないように注意。バーを降ろすときはバストトップにバーが当たるまでおろして、まっすぐ上げる。いい?まっすぐよ。多くの人は肩の方に、後ろに流れちゃっているの。そうすると正しい部位にヒットできないからね」
 斎藤さんのフォームは丁寧で、美しかった。アンドロイドのように、バーをぶらすことなく、機械的に上げ下げする。
「ほら、やってみな」
 言われるがまま、僕はベンチに寝転がり、両手をバーに添える。
「最初は重りを外すよ。バーだけでやってみな」
 バーだけなら楽勝だろう、と高を括っていた。だが、胸の位置までバーを下げてから、いざ持ち上げようとしてみると、どうにもバランスが取れない。左右に傾き、まっすぐに挙げられない。重りの無いバーだけでも、十分重く感じる。これはショックだった。
「ま、最初はこんなもんよ。何回かやれば慣れる」
 なんとかバーを水平に保てるようになるまで数をこなすと、斎藤さんは5kgの重りを両端につけた。
「バーの重りが20kgで、5kgを片方ずつにつけているから、合計30kgね。最初はそれで10回3セットやってみなさい」
 僕は忠実に数をこなそうと懸命にがんばった。が、2セット目からどうしても、10回まで届かない。
「大丈夫、そのうちできるようになる。できるようになったたら、重りをあげていけばいいから」斎藤さんは何故だか、筋トレでへばっている僕には優しかった。
 その後、初回ということで軽めの重りでスクワットとデッドリフトをこなし、家に辿り着く頃には全身に気だるさと充実感が漲っていた。


 土の上を転がるボールをインステップで蹴りだそうとする。その瞬間、肩に体をぶつけられて、バランスを保つことができずに転倒する。週3回のウエイトトレーニングを始めてから2週間になるが、効果は如実には現れなかった。さすがに、そんなにすぐに体は変わらない。
 それでも、部活の練習後とはまた違った筋肉疲労が、快感になり始めてきていた。翌日の筋肉痛の質が、違う。生きていることを実感する痛みが嬉しかった。タンパク源の多い食事や、プロテイン、たまに斎藤さんが差し入れてくれる鳥のササミの塊を頬張り、壊れて2歩下がった筋繊維を3歩進ませるその行為が、一歩一歩、駅の彼女に近づいているような気がした。
 駅の彼女とは顔を合わせる日もあれば、会わない日もある。彼女が遅刻をするか、僕が遅刻をするか、彼女が1本早い電車に乗っているか、僕が1本早い電車に乗っているかのいずれかだろう。2本早い電車に乗ることは考えられない。始発が1本前だからだ。

 京都の底冷えがそこまで厳しくなく、二度寝をすることなく、気怠い目覚めもなく、体も重くない。ベッドを抜け出し、髪の毛のセットがいつもより上手くいき、しっかりと朝食とプロテインを摂った朝、今日がその日のような気がした。
 吹きさらしのホームに立つ。電車を待つ。朝霜の香りが鼻腔を湿らす。しばらくして、凛とした佇まいの彼女が階段を降りてきた。彼女の手には、紅茶の缶がある。平常心を保ち、両手に息をあてる。手袋を忘れたことに気がつく。ホームの金網の向こうを、灰色の毛の猫がゆっくりと歩いていく。どこかの張り紙で見かけたことのある猫だった。
 電車が到着する。彼女が電車に乗り込む。僕は、ほんの少しばかり厚くなった(かもしれない)胸を張り、堂々と彼女と同じ車両に乗り込んだ。初めて、彼女と同じ空気を吸ったような気がした。車内は空いていた。座席の隅にひっそりと座る彼女の姿は、雪の妖精のようだった。

 学校に着く。朝食をしっかりと摂ったおかげか、それとも、彼女と初めて同じ車両に乗ったせいなのか、判然としないが、教室までの道のりがやけに軽やかに感じられた。途中、構内の自販機に寄り、リプトンのリモーネを買う。もちろん、ホットだ。
 1限目、国語の授業中に紅茶をぐびっと飲んだ週間、講師の小島と目があった。
「水島、授業中に紅茶飲むとは、ええ根性しとるな」
 小島が嫌味たっぷりに言った。教室のみんながクスクスと笑う。駅の彼女がこの場にいたら、笑ってくれていただろうか。まだ目にしたことのない、彼女の笑顔を想像すると、叱られているにも関わらず、心が温かくなった。確かに、僕は根性がついたのかもしれない。

 

 また年が明けて、1月になった。寒さが増すと共に、僕の体質量も増しているように感じた。
「水島、体重増えた?」絵里が尋ねた。
 絵里は、同じクラスにいる女子だ。席が近いこともあり、たまに話しかけてくる。
「ああ、まあ、増えたといえば、増えたね」太った?という意味で聞かれているのか、分からなかった。
「なんか…厚くなったやんなぁ」絵里が、そのビー玉のように大きな目で、しげしげと僕の体を眺める。
「ありがとう」
「褒めてるつもりじゃなかってんけど」
「あぁ」
 僕自身、体格が変わっているかどうか、定かではなった。ジムでのトレーニングは、順調にウェイトを重くしていっていたが、それが僕の体の厚みに、どう作用しているのかは分からなかった。
 僕は購買部まで走り、斎藤さんに、絵里との会話を報告した。
「まあ、高校生の成長は早いからね」
「なるほど」
「で、あんたはそのクラスメートの女の子にそう言われて、嬉しかったんだ?」
「分からないですけど、なんか小恥ずかしいというか、こそばゆい感じです」
「はんっ」斎藤さんは鼻で笑う。これまでの斎藤さんとの会話で、嘲笑されなかったことが無い。「あ」や「え」、「まあ」といった枕詞の代わりに、斎藤さんは鼻で笑う。

 僕はまた彼女を見かける。吹きさらしの、京都府の駅のホームで。彼女はバーバリーのマフラーを巻いていた。心なしか、化粧がだんだん濃くなっていっているような気がする。紅茶の缶は未だに、彼女の両手の間にちょこんと鎮座していて、それを見るとホッとした。
 彼女と同じ車両に乗り込んだ、ほとんど同時に。車内は相変わらず空いていて、僕らは(「僕ら」なんて言い方はおこがましいかもしれないが)ほとんど同時に、座席に座ろうと、した。そう、座ろうとした時だった。彼女と斜向かいの座席に腰を降ろそうと、体を屈めた際に、肩にかけていたエナメルバッグから教科書たちがドサドサと落ちた。バッグの口を開けっ放しにしていたことに気づいていなかった。
「あぁ」口から、思いがけず情けない声が漏れる。電車が動き出すと、重力に引っ張られるように、教科書の1冊が彼女の足元に滑っていった。
 顔から火が出るほど恥ずかしかった。腰を屈めたままの、惨めな姿勢で動けないでいると、彼女が足元の教科書を拾い、立ち上がり、渡してくれた。田植えでもするかのように、半屈みの哀れな姿勢で立ち尽くす僕に。
 お礼もいえず、笑顔にもなれず、ただ「すいません」としか言えなかった。彼女は何も言わず、はにかんだ後、席に戻った。

「水島、今日は張り切ってたな」同級生が僕の肩を叩いた。主将の「お疲れした」の掛け声と共に、円陣を崩した時のことだ。
 グラウンドはすでにプラネタリウムのように真っ暗になっていて、ナイター照明の明かりもおぼつかない。視覚が奪われる中、あたり一面に立ち込める水仙の香りだけが、冬の夜の訪れを五感で感じる唯一の手段だった。
「まあね」と返事した。つもりだったが、ほとんど掠れた音しか出てこなかった。普段は練習中に声を出さないのに、この日はやたらと大声を張り上げていたので、すぐに声が枯れてしまっていたのだ。
「声、出てへんやんけ」同級生は優しく笑うと、部室へと走って行った。
 暗闇の中、去っていく背中を感じる。暗がりに溶け込むように消えていく背中を見ると、何か大切なものを失ってしまったような気分になった。冬の陰気な影が、多感な僕の肩にのし掛かっているのかもしれない。そして、僕はそれを振り払う術を知らなかった。

「水島は、トイレマンやな」絵里が僕を指差して言った。ある日の午後、教室に戻ってきたときのことだった。
「なぜ?」僕は尋ねた。この歳になって、突然、新たな名をつけられることに困惑した。
「なんでって、水島、めっちゃトイレ行くやん。休み時間のたびにトイレに消えてんねんもん」
「それは、寒いし、よく紅茶を飲むからだよ」僕は机の上に置かれているリモーネの缶に目をやりながら反論した。できることなら、その不名誉なあだ名は避けたかった。
「なんでもええわ。ウチは水島をトイレマンってこれから呼ぶから」絵里は嬉しそうに宣言した。
「君はすごく、幼いね」
「トイレマンのくせに、うるさいわっ。ちょっとがっしりしてきたからって、調子乗ってんちゃうぞっ」そう言いながら、僕の胸をぺしっと、叩いた。撫でた、という方が近いかもしれない。とにかく、そんな風に触れられたのは初めてだったので、僕は動揺した。
「うわ、意外と胸板あるなぁ」
 絵里はそれからペタペタと僕の上半身を、物色し始めた。彼女は僕の筋肉で遊んでいるようだった。
 女子に体を触られたのは、鍛え始めてから初めてだった。僕は常に細い体格にコンプレックスを持っていた。そして、誰かに、特に女性に、触れられるたびに、コンプレックスを刺激されているように思い、不甲斐ない感情を抱いていた。だが、今、こうして触れられて抱く感情は、それまでの嘆かわしいものとは、全く別のものだった。
「なに、赤くなってるん?」絵里がケラケラと笑った。
「なってないよ」僕は絵里に背を向けて、席にもどった。

 次の日、彼女を駅のホームで見かけた。その日はいつも以上に寒く、いつも以上に、冷たい風を遮るものなどないように感じた。オープンカーでサファリパークを走るような、そんな無防備さの中、僕の胸にはぽっかりと穴が空いてしまったような気がした。
 彼女はバーバリーのマフラーを巻いて、初めて見たときよりも格段に濃い化粧で、隣に立つ男子の腕に寄りかかっていた。
 どうしたら良いか分からなかった。見てはいけない気がして、必死に目を逸らすも、いつも以上に僕の目は彼女に吸い込まれていった。正確には、彼女”たち”に。男子は彼女と同じトーンの制服を着ていて、背が高く、毛先を遊ばせている、軟派な奴だった。僕の方が、体格が良いのではないだろうか。腹の底に文鎮がずしりと沈んでいるような気分になる。
 傷つくと分かっているのに、それでも彼女たちを見てしまう。生粋のマゾヒストなのだろうか。一度も見たことのない笑顔を、隣の男子に向ける彼女を見るたびに、胸が痛んだ。身にまとった胸の筋肉は、なんのクッション材にもなってくれない。彼女はいつか、教科書を落としたときに見せた笑顔とは、全く質の違う顔を、軟弱な男に向けていた。心を相手にゆだねるようなその表情が堪らなく寂しかった。彼女が紅茶を持っていなかったことも、嫌だった。
 電車が到着する。授業に間に合うための最後の電車だった。僕は彼女と彼とは、同じ車両に乗りたくなかった。それどころか、同じ電車に乗りたくなかった。目の前に開かれたドアを無視する。乗車を拒絶し、ホームに直立不動で立つ。電車は少し躊躇したように、しばしの間、待っていたが、やがて諦めてドアを閉めると、無味乾燥に去っていった。

「珍しいじゃない、遅刻なんて」
 斎藤さんは購買部の前を横切ろうとした僕を呼び止めた。すでに、始業のベルは鳴り終わっていた。
「すいません」
「私に謝ったって意味ないじゃない。高校生に遅刻は、つきものだからね。コーヒーとフレッシュのような関係よ。で、なんで遅刻したの?」
 慰められているのか、詰められているのか分からなかった。とりあえず、電車を逃したと答える。
「なんで電車逃したの?」
 そこまで踏み込んで聞かれるとは思っていなかったが、あるいは、斎藤さんは何かを見透かしているかもしれないと思った。斎藤さんには、すべてを話してしまいたくなるような不思議な魅力がある。
「実は…例の駅で見かける女の子が、男と一緒にいたんです」
「まあ!」斎藤さんは棚に並べようとしていたカスタードパンを握りつぶした。
「ということは、朝帰りってことね!高校生のくせに、生意気ね!」
「朝帰り?」
「お泊まりして、そのまま一緒に登校ってことよ。お盛んね」
「え、お泊まり!?」声がひっくり返ってしまった。
「そうよ、お泊まりよ。あんた、男女がお泊まりして、やることなんてひとつしかないじゃない。お盛んね」
 耳を塞いでしまいたかったが、冷静に考えれば、そういうことだろう。いや、冷静に考えると、最寄り駅が一緒だということも考えられる。
「単に、駅が一緒の可能性もあるんじゃないですか」
「ないわよ、そんなの。あんた、一度でもその男を駅で見かけたこと、あるの?」
 言われてみれば、あんな男、見たことがなかったし、見たくもなかった。
「いやー若いって素晴らしいわね」
「え、僕、どうすれば」
「どうもこうも、ないわよ。どうしようもないわ。彼女は、彼とのエッチに夢中なんだから。お盛んね」
「やめてください…」僕はうつむく。丘の上のヘルス。宮本の言葉が頭をよぎった。体から力が抜けていく。
「あら、いっちょまえに傷ついているの?高校生のくせに、10年早いわよ。いいじゃない、傷ついて。男は、傷ついてパワーアップするのよ。筋肉と一緒よ。筋繊維にダメージを与えて、回復する時には前よりもっと強くなっているの。あんたは今、心に傷を負ったんだから、時が経って回復するころには、もっと強い男になっているはずよ」
「はぁ」おちょくられているのか、慰められているのか分からなかったが、とりあえず斎藤さんにお礼を言い、とぼとぼと教室に向かった。
 ガラリと教室のドアを開け、いつもの調子で教室の席に座り、黒板の方を見ると、教壇に立つ小島が絶句していた。
「水島、お前、遅刻しておいて、なんの悪びれもせんと普通に入ってくるとは、ええ根性しとんな」何人かのクラスメートがクスクスと笑った。駅の彼女がこの場にいたら、笑ってくれただろうか、でも、もう関係ないんだな、と思った。そしてそう思うことで、胸を自ら締め付けている自分がいることに気づいた。

 教室でリモーネの缶をぼーっと眺める。彼女と同じ紅茶を飲んでいるという事実だけが、地底深くに流れる水路のように、僕と彼女を見えないところでつなげているものだった。

 その日は、いつもより重いウェイトでベンチプレスに挑んだ。数回目の持ち上げ動作の際に、腕の力が限界を迎え、支えきれなくなったバーベルが顔面に向かって落下してきた。間一髪、両脇に位置するセーフティーバーにバーベルがぶつかり、直撃は免れたが、バーベルとベンチに挟まれて、身動きが取れなくなってしまった。すぐさまジムのインストラクターが駆けつけ、助け出してくれたが、「重いウェイトを行う時は必ず補助をつけてください」と注意されてしまった。みじめだった。パワーアップなんて、していないじゃないか。

 

 2月、寒さもいよいよ佳境に入った。十分に肉が増した体でも、寒いものは寒い。覆うものが厚くなっても、暑くなることはないのだろうか。慣れとは怖いもので、相変わらずこの季節になると、リモーネの紅茶を買い続けている。そして、トイレも変わらず近い。
 昼休み、校庭でボールを蹴る生徒たちを、3階の廊下の窓から眺めていた。
「水島、また紅茶飲んでるん?」いつしか、僕をトイレマンと呼ばなくなった絵里が隣に立っていた。
「寒いと、飲みたくなるから」
「それでまた、トイレ近くなるんやろ?いい加減学習しぃや」
「うるさいな」
「てか、外眺めて、なに黄昏てるん?かっこつけてんの?」
「つけてないよ。寒い中、よく走るなーって思って、眺めてただけ」
「あぁ」
 そういって、絵里は少し背伸びして窓の向こうを見ようとした。背の低い絵里がお団子頭を懸命に伸ばそうとしている姿は、本当に子供みたいだ。
「よう、昼休みに練習するなぁ」窓格子に手を乗せて、絵里がため息まじりにつぶやく。
「本当だよ。消化不良起こしちゃうよ」
「水島はお昼休みに練習とか、せんかったん?」
「しなかったね。栄養をきちんと摂ることを優先したかったから」
「ほえ〜」感嘆とも呆れともつかないような声をあげて、絵里は僕の体をジロジロと舐めるように見回した。
「サッカー部の子が言うてたで。水島、ほんまに体強くなったって。もともと下手ではなかったから、それで一気にレギュラーになれた、って」
「そっか」体を鍛え始めた理由の半分以上が、サッカーのためではなかったから、なんとなく、その部員に対して罪悪感を感じた。
「冬の大会も終わっちゃったからなー」
 僕はグラウンドから目を離し、正面に聳える山々をぼんやり眺めた。盆地の京都では、寒気がすり鉢の底に溜められているようにも見える。
 冬の陽光がうららかに差し込み、廊下に立つ僕たちを照らす。眩しさに目を細めると、うっすらと窓に反射する、絵里と僕のシルエットが見えた。小さな体に大きなお団子の頭と、紅茶缶を手に持つ、高くも低くもない背丈の、がっしりとした体格の、ふたつのシルエット。背後を、何人かの生徒が走り過ぎて行く。

 吹きさらしの駅のホームに、彼女がいた。あの日見た男は、いなかった。僕はたまたま、駅の自動販売機で買ったリモーネの紅茶を飲んでいた。彼女も、同じ紅茶を両手で大事に持っていた。電車が到着し、同じタイミングで、同じ車両に乗り込む。
 相変わらず車両は空いていた。手前の座席隅に腰掛けると、彼女が対角線上に座った。彼女の顔を正面から見るのは、初めてかもしれない。彼氏がいるだろう女性を眺めるのもなんとなく居心地が悪く、取り繕うように紅茶を口に運ぶ。すると、彼女も全く同じタイミングで紅茶を口にした。缶を降ろすと、目があった。自然と、僕らは微笑んだ。
「いつも、同じ電車でしたよね」彼女が僕に話しかけた。
 空耳かと思った。今、彼女は僕に話しかけたのだろうか?呆気にとられて、焦点を失ったように彼女をぼんやりと見つめる。ショートカットの黒髪に、そら豆のように小さな顔。大きな瞳は、雪景色の中に潜むベルガモットを思わせた。
「はい、いつも同じでしたね」はじめて彼女と交わす、言葉。
 電車はゆっくりとトンネルを抜けて、田園と茶畑を窓に映し出した。ところどころに、雪解け後が点在している。延々と続く景色のように、この時間も続いて欲しいと願う。
「X高校ですか?」彼女が尋ねた。
「はい、X高校です。えっと、もしかして、Y高校ですか?」聞きながら、もし彼女が本当にY高校に通っていたら、どうしようかと思った。宮本の言葉が頭を過ぎ行く。
「いえ、Z高校です」彼女は、にっこりと笑って答えた。Z高校は、Y高校よりもさらに先の町の学校だった。
 無情にも、電車がX高校の最寄り駅に到着する。あっという間だった。別れ際、彼女は手を小さく振ってくれた。
 電車を降りたとき、喜びで胸がはち切れそうになったが、すぐに、例の男の影がちらつき、暗澹たる気持ちになった。

「別にいいじゃない、男がいたって」
 斎藤さんはイチゴジャムパンを頬張りながら、購買部のカウンターに肘をつき、言った。
 休み時間、人影もまばらな購買部。僕は斎藤さんに、先ほどの電車内の奇跡を打ち明けた。はじめて、駅の彼女と言葉を交わしたこと、それでも男の影が気になって、喜んで良いのかわからないこと。
「男がいたって、会話くらい、良いに決まってるじゃない。あんた、ピュアすぎじゃない?もう高校3年生でしょ。もっと器用に生きないと、この先苦しむわよ」
「いや、会話することに罪悪感はないんですけど、手放しに喜べないとうか」
「なんで手放しに喜べないのよ。手を放さなければ喜べるわけ?」
「なんというか、初めて彼女と喋れたのは嬉しいんですけど、でも、あの子は結局、例の男の彼女なんだな、と思うと、複雑で」
「私の読みでは、彼女、その男とはもう別れているわよ」
「え、もう?」
「もうって、あんた。駅でその男と彼女が一緒にいるのを目撃したの、もう1年前じゃない。高校生の恋愛なんて一瞬なんだから。最後にその男を見たのって、確か去年の1月じゃない?」
「はい」
「じゃあもうとっくに別れているわよ。そういうもんよ」
「そういうもんですか」
「それにしても、あんたも一途よね。もう高校3年生で、もうすぐ卒業でしょ?初めてその、例の駅の彼女を見たのが、確か高校1年生の12月くらいよね。私がこの学校で働きだしたのが12月くらいだから。それで、高校2年生になって、たしか1月よね?男がいたー!とかバカみたいに泣きちらかして」
「泣いていないです」
「それで、もう高校3年生の、2月よ。あんた、再来月から大学生よ?それが、初めて喋った、だの、男がいるかもしれないだの、いつまでも子供みたいなこと言ってるんじゃないわよ。この、元もやしっ子」
 3年近く経っても、斎藤さんは未だに僕の名前を覚えていなかったが、自らがつけた名称は覚えている。
「それにしても、1年生の12月から、今まで、ずっとその子のことを見ているなんて、ストーカーみたいで気持ち悪いわね」
「はぁ」
「まあ、一途っていえば、一途なんだけど」
「ずっと好きだったわけでは、ないです」
「あー、絵里ちゃんと付き合ってたんだっけ?」
「付き合っていないです。廊下でよく喋るだけです」
 廊下で僕と絵里が楽しそうに喋っている姿を、よく目にする、という粗末な理由で、僕らが付き合っている噂が立ったことは知っている。あまりに幼稚な噂だったので気にしないでいたが、まさか斎藤さんまでその噂を知っているとは思わなかった。
「あんた、私の娘に合わせてみたいわ。そんな一途な男、素敵じゃない」
 筋トレをしているからか、斎藤さんは実年齢より若々しく見える。ショートカットの黒髪に、小さな顔、大きな瞳。僕と同じ駅のジムに通っている。この学校にやってきたのは、確か僕が1年生の12月そこらだった気がする。

 構内の自販機へ向かい、硬貨を入れる。元もやしっ子。先ほどの斎藤さんの言葉を思い返し、苦笑する。もやし以下の僕に自信をつけさせてくれたのは、斎藤さんだった。卒業しても、たまに会いに来ようかな。ゴトン、と、リモーネの缶が落ちてくる。
 その前に、明日は自分から話しかけてみよう。顔の小さな、雪の結晶のような駅の彼女に。まずは、名前を知ることから始めよう。

祖母のCEO

昨年の盆、名古屋に帰省した。
数日間を実家で過ごして分かったことは、父親がとんでもなく早起きになっているということだった。
その頃僕は、『21世紀の歴史は朝に作られる」なんて記事を読んだばかりで、早起きしたいなーと、漠然と"願って"いた。なんでも、ナイキのCEOは5時に起床していたり、スターバックスツイッター、その他大多数のCEOはみんな例外なく早起きとのことだったので、僕も早起きしなければ!と発起したものの、朝日が顔を撫でる度にウンウンと唸りながら、布団の端から端を転げる朝が続くばかりだった。

 

父は休日にも関わらず5時半に起きていた。彼は一体何のCEOなのだろうか。
一緒に寝ている愛犬よりも早く起きる父は、もはや猿のようだった。

 

蝉の鳴き声が時雨する8月の夕方、父に「明日、朝9時におばあちゃんと喫茶店に行こう」と誘われた。僕は内心、「え、マジで」と躊躇した。
理由は二つ。一つは朝が早かったこと、もう一つは、祖母と会う”こと”そのものだった。

 

***

 

祖母は、世間のおばあちゃん像のど真ん中を地で行く人だ。
小さい頃はよく、おもちゃを買ってくれた。優しくて面倒見がよく、家に遊びにいくたびに国語や算数を(僕は嫌がっていたのだが)教えてくれたりした。
庭で採れた梅干しを毎年漬けていて、それでつくるおにぎりは絶品だった。手のひらに塩をまぶして握るのだが、塩加減が絶妙なのだ。
笑うと、顔が古紙のようにくしゃっと、皺だらけになる。小さな顔の中で、大きく開く口が印象的だった。

 

僕の実家は祖母の家から歩いて数分の距離にあるので、アメリカに引っ越す小学4年まで、しょっちゅう足を運んでは、梅干しを食べたりテレビを見たり、思い思いにくつろいでいた。祖母は、いつも畳に座布団を敷いて、丸テーブルの横で正座していた。

 

祖母は、父が大学生になっても恋愛を許さなかったという。たまたま遊びに来ていた叔母がそのことを茶化すと、祖母は頬を膨らませて「覚えとらん!」なんて憤慨していた。優しい祖母の意外な一面ではあったものの、古風な価値観の持ち主だったので、特に驚きはしなかった。

 

ワイドショーが好きで、さらにはそこで得た知識を僕たちにひけらかすことが好きだった。
「しょうくん、まりちゃん、湯葉は、とっても頭に良いんだよ。おばあちゃん、3日経っても思い出せなかったことが、湯葉を食べた瞬間に、パッと思い出せたの。湯葉は記憶に良いから、たくさん食べなさい」と、当時小学生だった僕と姉に、3日連続で言って聞かせた。次の日も、その次の日も初めて披露するかのように話すので、さすがに姉はうんざりした様子で、「おばあちゃん、その話、もう3回目だよ」と言うと、祖母は「あれ〜。記憶にないな〜」なんて笑ってごまかしていた。姉はため息まじりに「おばあちゃんこそ、湯葉、食べなよ」とぼやいていた。

 

最初に、僕の就職先を忘れた。笑ってごまかすこともなかった。
その半年前までは、「しょうくんの会社の株価を、毎朝新聞で調べているんだよ」と嬉しそうに話していたのだが、やがて僕が就職していることも忘れ、次第に、祖母の中で僕は大学生に戻っていった。そんな祖母に会うことが、億劫になっていった。

 

***

 

結局、コメダ珈琲には11時に到着した。喫茶店文化の名古屋では、店は常に混み合っている。
合流した母と、祖母、父、僕の4人でテーブルを囲む。木目調に統一された店内は、年配のおば様方たちの会話が飛び交い、弛緩と喧騒が入り混じる空間となっていた。
僕たちのテーブルはというと、途切れ途切れの会話が重苦しかった。祖母だけが、にこやかに顔をキョロキョロとさせていた。
小さい頃、当たり前に丸テーブルの横で正座をしていたように、表情は晴れやかだったが、全体的に侘しい雰囲気が漂っていた。少し痩せたのだろうか。かつては綺麗に整えられた髪の毛も、どことなく乱れているようだった。
モーニングが運ばれる。手をつけたが、その作業は、食べるよりむしろ、片付けるに近かった。僕は時間に、早く過ぎてほしいと願った。

 

「お義母さん、この子、誰か分かりますか?」と、母が僕を指して訊ねた。
やめて欲しいと切に思った。なぜ、こんなにも簡単に、記憶に関する質問を投げられるのだろう。固唾を飲んで見守る中、祖母は自信なさげに答えた。
「ん〜、しょうくん?」
「お〜正解」と父が囃し立てるように言った。
祖母は「あ〜」と顔をくしゃっとさせて、大きく口を開けて笑って喜んだ。手を口に当てて笑う上品な素振りは、「記憶にないなー」なんてごまかすように笑っていたあの頃に似ていた。おばあちゃんこそ、湯葉、食べなよ。僕は堪えきれずに席を立ち、トイレに向かった。

 

トイレの中で、少しセンチメンタルになってしまったのかもしれない。母がもし、祖母のようになってしまったら、と想像を巡らせた。瞬時に、耐えられないと思った。
ふと、先ほどの父の顔が頭をよぎった。どうして父は、あんなに平然としていられるのだろう?

 

トイレから戻ると、父は祖母に、今朝は何をしていたのか訪ねていた。記憶を掘り起こすような質問に、僕は少し嫌悪感を抱いたが、その訊き方には、遠慮や慎みのない、親子のつながりを感じた。
祖母が答えられずにいると、「散歩に行っただろう」と聞いた父が自ら、優しく教えた。
聞くと、運動が脳に良いそうで、毎朝、猛暑の時間帯を避けるために、早朝に二人で散歩をしているとのことだった。その後、喫茶店で朝食を。
「まあ、覚えとらんでな」なんて冗談めかして言える父を、強いと思った。

 

毎朝、愛犬よりも早くに起きる父を思い返した。極度の健康志向がついに起床時間まで蝕んだのかと、てっきり思っていたが、まさか祖母のために早起きしているとは気づかなかった。

 

普段そっけない父が、生活習慣を変えてまで行動する姿は、祖母にどう映っているのだろうか。そんなことを思った瞬間、いろいろな感情が込み上がってきた。
遠慮のない親子の会話だとか、ぶっきらぼうな父が祖母の歩調に合わせて歩く姿だとか、祖母の家のチャイムを押す父だとか、それを待つ祖母だとか、父が押すチャイムを待つ祖母はどんな気持ちなのか、とか。祖母は毎朝、はやる気持ちで父を待ち構えているのだろうか。ガラガラと開かれる引き戸の音に合わせて、畳の上の座布団から足を解く祖母を想像する。柱に手を預けながら玄関に出てくる祖母は、昔と変わらなかった。

 

祖母の歴史は今、朝に作られているのだろうか。その歴史も、二人の積み重ねも、記憶の悪戯によって、紡がれることはないのかもしれない。けど、幸せなんじゃないかな、なんてありきたりな言葉が浮かんできた。きっと父は、祖母にとってのCEOなんだ。

光り輝くクズでありたい

AV男優のしみけんさんは非常にストイックで、僕は、彼のそんなところを尊敬している。

AV男優への志願欲があるわけではない。しかし、定期的にトレーニングに勤しみ、毎朝、しっかりと栄養を補給する彼の生活は参考になるし、真似をしたいと思っている。
起床後、真っ先にBCAAを常温のポカリスエットで流し込み、コーヒーを飲んでからエアロバイクを数十分漕ぐ。コーヒーは脂肪を燃焼させる効果があるために飲んでいるという。

軽い有酸素運動のあとに、鳥のササミ、納豆などの高タンパク朝食。そして、プロテイン。理想的な朝の使い方ではないか。

画面に映る者として、身体を作る必要があるしみけんに対して、何のアスレティック的な目標のない僕は、しかしそういった生活に憧れを持つ。

規則正しく生活するのが好きなのだ。もっというと、そういった生活をしている自分が好きなのかもしれない。
運動して、栄養を摂取する。身体に良いことはもちろんだが、一番の効用は精神への作用ではないかと思う。「身体に良いことをしている」環境では、精神も落ち着き、非常に健全なメンタルヘルスの状態になる。

これは禅の教えに似ている。禅の基本的スタンスは、「精神は自分で直接コントロールできない」だ。直接、心を正すことはできないので、先ずは体を正そうとする。具体的には、姿勢を正す努力をするのだ。結跏趺坐(けっかふざ)の型で座り、背筋は伸びているか、頭は首の真上に位置しているか、体は左右に流されずまっすぐに立っているか、意識して正す。姿勢を整えたら、次は呼吸を整える。吐く息、吸う息に意識を集中する。呼吸が整ったら、次第に心も整っていく。
つまり、物理的な体(姿勢、呼吸)を整えることで、目に見えない精神も自ずと整っていくという考え方であって、同じ理屈で、規則正しい生活も、精神を整える作用があるのではと思う。

早起きもメンタルヘルスにとっては良い。世の中がまだ眠っていることを意識しながら、すでに動いている自分をリスペクトできる。

 

しみけんさんの著書、『光り輝くクズでありたい』を読んで、早速BCAAを購入した。
僕は、割と影響を受けやすい。
7月からウェイトトレーニングを始めているが、中々サイズもウェイトも上がらずに困っていたので、BCAAサプリメントでどう変わるか楽しみである。

また、爪やすりも購入した。しかも、ボヘミアンガラスの爪やすり。男優たちの間で流行っているらしい。

改めて断っておくが、AV男優への志願欲は、無い。

 

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僕が愛したゴウスト

扉を抜けると、そこは5分後の未来だった。


異世界に紛れ込んでしまった経験はあるだろうか。
僕は、ある。
正確には、幼心に異世界と信じて疑わなかった世界での経験に過ぎないのだが。

 

小学1年生の頃だった気がする。季節を正確に覚えていないのだが、薄着の割には、早々に陽が落ちて、赤とんぼが飛んでいたから、おそらく秋だったのだろう。
周りの景色や気温よりも、未来に到着したと感じた瞬間の、胸の高鳴りと一抹の不安の方が鮮明に記憶に残っている。

 

近所に3つ上のお姉さんが住んでいた。彼女は僕の同級生の姉でもあり、僕の姉の友人でもあるのだが、とにかく彼女は僕にとって3つ年上のお姉さんだった。頻繁にお家にお邪魔していた。
詳しい経緯は覚えていないのだが、僕はその3つ上のお姉さんと近所を散歩した。名古屋の住宅街には昔ながらの家が多く、トタン板の塀や、ひしゃげた屋根を携えた家が点在していた。

 

裏路地に入ると、そういった古びた家の存在は一層顕著になり、錆びた自転車や物干し竿など、生活臭がメタンガスのようにあたりに充満していた。

 

ふと、お姉さんが扉の前で立ち止まった。赤焦げた、ドアノブ式の勝手口の扉だった。なんてことはない、ただの薄い木の扉だ。
「翔くん、この扉には、絶対に何かあるよ」
お姉さんは真面目に言っているようだった。そう言われると、無垢な僕は「うん、うん」と信じ込んで、目を輝かせた。何の変哲もないただの扉が、途端に異質な雰囲気を湛えて見えた。
「きっと、5分後の未来に通じている扉だと思うんだ」
お姉さんは僕より3つ年上で、当時小学四年生だったので、年不相応にファンタジーに通じていたのだと思う。
僕は「えーっ」と声をあげながらも、未来に行ったらどうなってしまうんだろう、と怖くなった。同時に、およそ自分しか経験できないだろう目の前の機会に、胸が跳ね上がった。
「扉、通ってみようか」
お姉さんは僕の目を見て言った。「え」と、僕は躊躇した。扉は勝手口だったので、恐らくこの家に住んでいる見知らぬ誰かの中庭に通じているのだろう。怒られないかな、と率直に思った。
「大丈夫!私たちは中庭じゃなくて、未来に行くんだから」
小学一年生にとって、小学四年生の声ほど説得力のあるものはない。僕たちはドアノブを回し、扉を開いた。

 

扉を抜けて、中庭を抜けると、見慣れた路地が目に飛び込んできた。しかし、そこが5分後の未来だと"分かっていた"僕は、目に入るその世界に違和感を感じた。どこか、ぎこちないのだ。
すでに夕暮れ時で、数匹の赤トンボとカラスの鳴き声が、赤く染められた空っぽの空に舞っていた。道行く人は、元の世界よりも、さらに他人だった。世界に心がないように感じた。
「うしろは降り向いちゃダメ。過去の私たちがいるかもしれないから」
路地を少し進んで、お姉さんの家の前に戻ってきた。どこか、寒々とした佇まいだった。

 

僕たちはこの未来の世界において、Strangerだった。ここにいていいのだろうか。戻る手立てはあるのだろうか。早く戻らないと。僕は焦った。
「もとの世界に戻るには、どうしたらいいの?」
「こっちだよ」
僕はお姉さんに手を引かれて、例の扉に戻ってきた。幼いながらも、そうか、また、この扉を通ればいいのか、と早合点していたが、お姉さんの答えは予想外のものだった。
「この扉を、蹴り続けるの。5分間」

 

「えっ」

 

僕は、僕の手を引くお姉さんを見上げた。お姉さんの目は好奇によって塗り固められていた。
それから僕たちは扉を蹴り続けた。「この、扉めっ!」「こいつ!」「くたばれ!」「扉!この!」なんて叫びながら、二人して薄い木の扉を蹴り続けた。
「こらっ!」と住人の親父に怒鳴られた。当然だろう。僕たちはゴキブリのように一目散に逃げ出した。怒鳴られた驚きと、未来を旅した事実に、心臓はずっとバクバクしていた。


打海文三の『僕が愛したゴウスト』を読んだ。小学5年生の少年が事故を境に、それまでとはどこか違う世界に迷いこむお話。その世界に住む人々には、心がなくて、尻尾がある。


扉を抜けた日を境に、僕の世界がすっかり変わってしまった。なんてことは一切ないのだが、お姉さんの中二病をしっかりと引き継いだのはこの日なのかもしれない。