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読書感想文/マーケティング/エッセイなど。基本的にフィクションです。

リモーネの温度

 吹きさらしのホームに、冬が訪れた。京都府の端、田舎町。駅には、風を防ぐものなど、ない。右から左へ通り抜ける小言のように、風は自由に走り抜ける。凍えるように寒く、手袋や、それといった類のものを持ってこなかった自分自身を、僕は呪った。
 田舎の駅で電車の到着を見るのは稀だろう。つまりは、だ。電車を逃すということは、寒さとの長い格闘を意味する。
 12月の寒空が頭上を覆う。僕は後ろを振り返ってみた。その行為に、たいした意味はない。そこで僕は、二つの見慣れない物を発見した。ひとつは、柱に貼られた迷子の猫の張り紙。もうひとつは、紅茶の缶を両手に持ち、暖を取る”彼女”だった。彼女は誰だろう?見慣れない顔だった。田舎町の、毎朝の通学時では、目にする面々はいつも同じだ。彼女は、いつもの面々にはいない、見慣れない存在だった。引っ越してきたのだろうか?同学年に見える黒髪の制服姿を、これまで見逃していたはずもない。高くもなく、低くもない背丈に、ショートカットの黒髪。豆のように小さな顔とは対照的に、凛とした大きな瞳は、閏みをたたえていた。その存在は、見窄らしい、吹きさらしの駅の中で、異質だった。彼女はまるで、雪の結晶のように美しかった。
 風が頬を刺すように吹く。どのくらい時間が経っていたのだろうか。気がつくと彼女は既に、いつの間にか到着していた電車の中で、いつの間にか座っていた。一体いつの間に、電車は到着していたのだろう。見惚れてしまっていて、全く気づかなかったのかもしれない。ホームに呆然と立っていた僕は恥ずかしくなり、いそいそと、彼女とは別の、隣の車両に乗り込んだ。

 教室に着くなり、僕は宮本の席まで一直線に歩き、先ほど目撃した制服の彼女の容姿を一通り説明し、彼女に関すること(それはどんなに些細なことでもよかった)について、知っていることがないか、訪ねてみた。宮本は、“そういうこと”を訪ねるのに、もっとも相応しい相手だった。
「彼女はどの駅で降りたんだい?」宮本が訊ね返した。立派な顎は、今日も健在だ。
「分からない」僕は言う。
「なぜ?」
「なぜなら、僕は彼女よりも先に降りたから」
「まあ」宮本は宙を見つめるようにして、続けた。「電車の路線から推測するに、彼女は隣町のY高校の生徒じゃないかと、僕は思うよ」
「なんで分かるんだ?」
「僕だって100%確かじゃないさ。けど、紺色の制服と、駅の情報と、君が説明する彼女の容姿を総合すると、ほとんどの確率でY高校だと思うよ」
 宮本の説明にはいくらかの説得力があった。少なくとも、高校一年生の未熟な僕の頭には、説得力があるように聞こえた。
「宮本、彼女の容姿は関係あるのか?」 僕は少しだけ気になった点を指摘してみた。
「可愛かったんだろ?君のその興奮した様子から察するに」
「あぁ、とても可愛かった。肌なんて、透き通るように透明なんだ」
「ほらね」宮本は満足げだ。
「ほらね、じゃなくてさ。どう関係があるんだよ」
「Y高校は女子のレベルが高いことで有名なんだ。もちろん、ルックスのね」
 なるほど、その一言で、宮本の推理には確固たる根拠ができたように思える。
 彼女の通う高校がわかった僕は、安心した。名前も歳も分からないのに、さらには宮本の推理が確かな情報かも分からないのに、彼女の高校の目星がついたことで安心してしまうなんて可笑しなものだったが、とにかく僕は安心したので、席に座り、エナメルバッグから教科書を取り出し始めた。
 隣に座る宮本がボソッと付け加えた。
「Y高校は、貞操が緩いことでも有名だけどね」
「え?」僕は思わず聞き返した。全て、聞こえていたのにも関わらず、だ。
「丘の上のヘルスって呼ばれているらしいよ」宮本はニヤニヤしながら言う。
「丘の上のヘルス?なぜ?」
「Y高校が小高い丘の上にあるからさ」
「そうじゃなくて、なぜ、ヘルスなのさ?」
「貞操が緩いからさ」
 言葉を失ったところで、チャイムがなり、国語講師の小島が教室のドアをガラガラと開けた。

次の朝も、吹きさらしのホームで、彼女を見かけた。彼女は手袋をしていなかった。僕は、昨日の呪いのおかげか、手袋を忘れていなかった。だが、驚くことに、手袋をしている僕よりも、彼女の方が暖かそうに見える。恐らく手に持っている、ホットの紅茶缶のおかげだろう。両手にすっぽりと収められた、黄金色の紅茶缶を見ていると、リモーネの温度がこちらまで伝わってくるようだった。
 僕の目は、雀のように辺りを舞い散らかした。彼女をやたらと凝視して、気味の悪い人だと思われたくなかったからだ。視線の置き場所に困っていると、壁に貼られた張り紙を再び発見した。迷子になった猫を飼い主が探している、という張り紙だ。どうしようもないローカル感にやるせなさを感じたが、町を挙げて一匹の猫を探し出そうとするその暖かさは、嫌いではなかった。ホームの金網の向こう、手を伸ばせば届きそうな距離に、焦げ茶色に禿げた田んぼが広がる。
 気がつくと、電車はいつの間にか到着していて、彼女はどこにもいなかった。

「あんた、細いわよね」
 購買部の斎藤さんは、僕が差し出した120円に目もくれず、話し始めた。お昼ご飯までお腹が持たない高校1年生の僕や、その他の生徒たちは、頻繁にこの購買部にやってきては、菓子パンやおやつを買っていく。斎藤さんは購買部で働く中年の女性だ。最近になってこの学校にやってきたので、僕はあまり斎藤さんのことを知らなかった。
「はぁ」早くイチゴジャムパンをくれますか、とは言えなかった。背後の棚からひょいっと、取ってくれるだけでいいのだ。
「もっと食べなさいよ」
 僕がオーダーするイチゴジャムパンを差し出さない代わりに、彼女は僕にもっと食べることを強要してきた。白い割烹着のような制服を着る斎藤さんの体型は、太っているようにも痩せているようにも見えない。
 購買部は空いていた。
「あんた、部活入ってるの?何部?」
「サッカー部です」
「あんた、サッカー部なの?もっと筋肉つけ方がいいんじゃない?」
 斎藤さんはようやく、120円を手に取った。背後の棚からイチゴジャムパンを取る気配は、まだ無い。
「そりゃあ、筋肉はつけたいですよ。でも、全然体重増えなくて」
「正しいトレーニングと正しい栄養を取っていないからよ。私から言わせりゃ、この学校のサッカー部の連中なんてみんな貧相な体しているけどね。あんたは特別よ。貧相を通り越して、貧弱。もやしのほうが強いんじゃないの?」
「僕は、もやしと喧嘩したことがないのでなんとも…」
「とにかく、こんなレーズンパンなんて食べていないで、もっとタンパク質を摂りなさい。鳥のササミとか、プロテイン飲むとか」
「イチゴジャムパンです…」
 斎藤さんの言うことはもっともだった。僕はもっと大きく、強くなりたかった。理由は二つ。ひとつは、サッカー部で生き残るため。フィジカルが弱い僕は、よく当たり負けをしていた。テクニックには若干の、いや微々たる、自信はあるものの、フィジカルが圧倒的に弱いため、接触の多いフィールドで試合をこなせる自信がなかった。もっとも、テクニックといっても、リフティングの数をこなせるくらいのものなのだが。
 ふたつには、見栄えを変えたかった。駅で見かける彼女に見合うような、立派な体躯の男になりたいと思ったのだ。彼女と肩を並べて歩いても、恥ずかしくないような男に。
「筋トレとかは、しているの?」斎藤さんはカウンターに頬杖をついて尋ねた。もう、パンを寄越す気は、さらさらないようだ。
「一応、部活で」
「どんな?」
「腕立て伏せとか、腹筋とか。あと、サーキットトレーニングを」
「はんっ」斎藤さんは鼻で笑った。「まあ、持久力という意味で体力はつくかもしれないけどね。でも筋肉はつかないわよ。重りをあげないと。鉄を持ち上げて、人は強くなるのよ。部活は酷よね。毎日長時間練習して、持久力トレーニングをして、ろくに栄養も休憩も取らないんじゃあ、体は痩せ細るわよ。あんた、ジムに通いなさい」
 半分以上、言っていることを理解できなかったが、いくつか分かったことがある。斎藤さんは僕にジムに通うことを勧めていること。そして、斎藤さんはもう、パンを寄越す気がないということ。サッカー部に入部して8ヶ月近くが経つが、部活の筋トレで体格が変わった形跡はない。そういった意味で、斎藤さんの主張には、ある種の説得力があるように思えた。立派な体格を身につけるには、ジムで筋力トレーニングを行う必要があるのかもしれない。しかし、今のしんどい部活と並行してジムに通えるのだろうか。
 僕は、駅で見かける彼女の顔を浮かべた。(恐らく)Y高校に通う、(恐らく)僕と同学年の、(確実に)愛らしい顔の彼女に振り向いてもらうために、僕は変わらなければいけない。潤みをたたえた目を思うと、心が奮い立つような気がした。

 12月の暮れは早い。午後6時にもなるとあたりは暗くなり、部員たちはグラウンドを片付け始める。湿り気を帯びた夜の空気が、体を濡らす。半分に区切られたグランドの向こうでは、野球部員たちがまだ、白球を追いかけている。平凡な私立高校の、平凡な練習風景だった。
 3年生のキャプテンが「お疲れした」と叫ぶと、全員で同じ言葉を叫び返す。解放を意味する、安堵の瞬間だ。
「水島、左足のキック、もっと練習しような」2年生の先輩が肩を叩いていった。僕はそれを励ましと捉えて、感謝したものの、同時に、少し惨めな気分になった。紅白戦の最中、利き足とは逆の、左足でクリアしようとしたボールはほとんど前に飛ばず、失点に結びついてしまったのだ。
 着替えと談笑を終えると、僕たち1年生部員は駅に向かい、それぞれの帰路につく。ただし僕だけは、寄るところがあった。

 昼間に購買の斎藤さんに教えて貰ったジムは、我が家の最寄り駅の近くにあった。どっしりと構える、臙脂色の大きな建物を見上げる。煌々と灯る看板のネオンと、2階の窓ガラスから透けて見える、ワークアウト中の会員たちに圧倒されそうになったが、覚悟を決めて、エナメルバッグと疲れた体を引きずってジムに入った。自動ドアをくぐると、受付の女性が笑顔で迎え入れてくれた。愛想の良い対応に安心したが、その瞬間、僕は申し込みに必要と思われるものを何も持ってきていないことに気づいた。心が乱れるのを感じつつも、ジムの見学をさせてもらえないかと、礼儀正しく聞くことができた。彼女は喜んで案内してくれた。
 大きな施設だった。3階建ての建物には、ロッカーとジムエリアの他に、プールも設置されている。ロッカーを通り、マシンエリアを案内されている間に、僕は彼女に申し込みに必要(そう)な書類を何も持ってきていないことを正直に打ち明けた。
「今日は体験ということで、このまま施設をお使い頂いてよろしいですよ。申し込みは次回で結構です」と、優しく応えてくれた。薄汚れたエナメルバッグを肩にぶらさげ、サイズの合わない学生服を着る、疲れた表情に同情してくれたのかもしれない、なんて自虐的な考えが頭をよぎった。
 フリーウェイトのエリアに案内された。屈強な男たちが筋肉を露出させて、体から蒸気を発しながら己の鍛錬に励んでいる。目の前に広がるマッチョイズムな世界に、これから足を踏み入れるかと思うと、急に億劫になった。これで案内は終了です、といささかドライに告げると、女性は営業用の笑顔で去って行ってしまった。心強いガイドに去られ、いささか場違いなエリアに取り残された僕は、心細くなり、逃げるようにロッカーに戻った。部活で着ていた運動服に着替えものの、気後れとも気恥ずかしさとも言える感情が胸に横たわる。高校1年生で、貧弱な僕に、ここは場違いではないだろうか。
 両手で紅茶を持つ、駅の彼女の姿が頭に浮かんだ。不思議なもので、記憶の中に残るリモーネの温度が、ロッカールームで怯える僕を勇気付けてくれている。彼女の横に並び立つ、屈強で堂々とした未来の自分。そうだ、変わらなければ。僕は一歩を踏み出し、再びフリーウェイトエリアに向かった。
 さて、足を踏み入れたまでは良いものの、何から手をつけて良いかわからない。両手の置き場所さえ気になってしまい、不遜に見られないように、とりあえず体の後ろで組んでみる。途方に暮れていると、女性がベンチプレスをあげている姿が目に入った。僕には到底、あげられそうにない重りが両端に付いたバーベルを「ハッ!ハッ!」と声をあげながら何回もこなしている。すごいなー、と感心していると、あることに気づいた。彼女だったのだ。

「あんた、本当に来たんだ」斎藤さんは汗をぬぐいながらいった。
「はい。ただ、斎藤さんがいるとは思っていませんでした」僕は驚きのトーンを混じえて言う。Tシャツ姿の斎藤さんの体は、シェイプされていることが見て取れる。細すぎず、太すぎず、バランスのとれた体型だった。
「で、何しにきたの?」
「えっと。斎藤さんがジムに通えと言うから」
「はんっ」彼女は鼻で笑った。それからラベルにBCAAと書かれたオレンジ色のボトルを口に含む。
「私が聞きたかったのは、ジムに来た目的よ」
「体を変えたいんです」
「なるほど。サッカーのため、よね。違う?」
「半分は正しいです」
「もう半分は、なによ。あんた、高校生のくせにもったいぶった喋り方するんじゃないわよ」
「すいません」
 僕は斎藤さんに、駅で見かける彼女のことを説明した。彼女に見合う体格の男になりたい、もちろん、彼女が現時点で体格的に僕より勝っているであるとか、そういったことではないのだが、見惚れるような彼女に振り向いてもらうには、何かを変える必要があることを、僕は正直に話した。何故だか分からないが、斎藤さんには全てを話してしまいたくなる何かがあった。
「あら。それは興味深いわね。あんた、それ先に言いなさいよ。部活とか関係ないじゃない。いやらしい」
「すいません」
「駅で見かけた彼女のためにウエイトトレーニングを始めるなんて、なかなかトチ狂っているじゃない。面白い。私、あんたのフィジカルコーチに、なってあげてもいいわよ」
 ウエイトトレーニングを始めるきっかけを与えたのは他ならぬ斎藤さん自身だったが、僕は黙って、斎藤さんに手を引かれるがまま、ベンチプレスの台に近づいていった。
「ベンチプレスは試したことある?」
「マシンのやつならやったことありますけど、このタイプのものは無いです」僕は眼下に横たわる黒皮のベンチと鉄の棒を見下ろした。
「あぁ、マシンとは全く違う獣よ、これは」斎藤さんはニヤリと笑った。
「マシンタイプのものは、胸だけに狭く効くの。けど、このフリーウェイトのベンチプレスは、まあ、胸のためといえば胸なのだけど、その他の上半身の部位も鍛えられるのよ。上半身を鍛えたかったら、これね。まずは大きな筋肉から始めるべき。私に言わせれば、あんた最初はベンチプレスとデッドリフトをやっておけば上半身は十分よ。あとはスクワットで下半身を鍛えれば上出来」
 デッドリフトの意味がいまいち分からなかったが、斎藤さんが3つのエクササイズにしか触れていないことに気づいた。僕はたくさんの器具が設置された室内を見回した。
「たった3つだけですか?」
「そうよ。まずは大きな筋肉にフォーカスするの。それが、あんたの体を大きくするんだから」
「他の器具やマシンはどうなるんですか?」
「気にしなくていいわよ、そんなもん。ほとんどはシェイピングのためにあるんだから」
「シェイピング?」
「なんていうのかしら。筋肉を理想の形に仕上げたいときに使うの。今は心配いらないわ。あんたはもやし以下なんだから、まずは体を大きくさせることに集中しなさい。大きな筋肉を徹底的に鍛えるの。とりあえず、見本見せるわね」
 斎藤さんはベンチに仰向けになった。
「バーが額の位置に来るように寝るの。バーを持ち上げたら」そういって斎藤さんは軽々しくバーを持ち上げる。両端には20kgずつ、重りがついている。
「肩甲骨を絞って、肩がベンチから浮かないように注意。バーを降ろすときはバストトップにバーが当たるまでおろして、まっすぐ上げる。いい?まっすぐよ。多くの人は肩の方に、後ろに流れちゃっているの。そうすると正しい部位にヒットできないからね」
 斎藤さんのフォームは丁寧で、美しかった。アンドロイドのように、バーをぶらすことなく、機械的に上げ下げする。
「ほら、やってみな」
 言われるがまま、僕はベンチに寝転がり、両手をバーに添える。
「最初は重りを外すよ。バーだけでやってみな」
 バーだけなら楽勝だろう、と高を括っていた。だが、胸の位置までバーを下げてから、いざ持ち上げようとしてみると、どうにもバランスが取れない。左右に傾き、まっすぐに挙げられない。重りの無いバーだけでも、十分重く感じる。これはショックだった。
「ま、最初はこんなもんよ。何回かやれば慣れる」
 なんとかバーを水平に保てるようになるまで数をこなすと、斎藤さんは5kgの重りを両端につけた。
「バーの重りが20kgで、5kgを片方ずつにつけているから、合計30kgね。最初はそれで10回3セットやってみなさい」
 僕は忠実に数をこなそうと懸命にがんばった。が、2セット目からどうしても、10回まで届かない。
「大丈夫、そのうちできるようになる。できるようになったたら、重りをあげていけばいいから」斎藤さんは何故だか、筋トレでへばっている僕には優しかった。
 その後、初回ということで軽めの重りでスクワットとデッドリフトをこなし、家に辿り着く頃には全身に気だるさと充実感が漲っていた。


 土の上を転がるボールをインステップで蹴りだそうとする。その瞬間、肩に体をぶつけられて、バランスを保つことができずに転倒する。週3回のウエイトトレーニングを始めてから2週間になるが、効果は如実には現れなかった。さすがに、そんなにすぐに体は変わらない。
 それでも、部活の練習後とはまた違った筋肉疲労が、快感になり始めてきていた。翌日の筋肉痛の質が、違う。生きていることを実感する痛みが嬉しかった。タンパク源の多い食事や、プロテイン、たまに斎藤さんが差し入れてくれる鳥のササミの塊を頬張り、壊れて2歩下がった筋繊維を3歩進ませるその行為が、一歩一歩、駅の彼女に近づいているような気がした。
 駅の彼女とは顔を合わせる日もあれば、会わない日もある。彼女が遅刻をするか、僕が遅刻をするか、彼女が1本早い電車に乗っているか、僕が1本早い電車に乗っているかのいずれかだろう。2本早い電車に乗ることは考えられない。始発が1本前だからだ。

 京都の底冷えがそこまで厳しくなく、二度寝をすることなく、気怠い目覚めもなく、体も重くない。ベッドを抜け出し、髪の毛のセットがいつもより上手くいき、しっかりと朝食とプロテインを摂った朝、今日がその日のような気がした。
 吹きさらしのホームに立つ。電車を待つ。朝霜の香りが鼻腔を湿らす。しばらくして、凛とした佇まいの彼女が階段を降りてきた。彼女の手には、紅茶の缶がある。平常心を保ち、両手に息をあてる。手袋を忘れたことに気がつく。ホームの金網の向こうを、灰色の毛の猫がゆっくりと歩いていく。どこかの張り紙で見かけたことのある猫だった。
 電車が到着する。彼女が電車に乗り込む。僕は、ほんの少しばかり厚くなった(かもしれない)胸を張り、堂々と彼女と同じ車両に乗り込んだ。初めて、彼女と同じ空気を吸ったような気がした。車内は空いていた。座席の隅にひっそりと座る彼女の姿は、雪の妖精のようだった。

 学校に着く。朝食をしっかりと摂ったおかげか、それとも、彼女と初めて同じ車両に乗ったせいなのか、判然としないが、教室までの道のりがやけに軽やかに感じられた。途中、構内の自販機に寄り、リプトンのリモーネを買う。もちろん、ホットだ。
 1限目、国語の授業中に紅茶をぐびっと飲んだ週間、講師の小島と目があった。
「水島、授業中に紅茶飲むとは、ええ根性しとるな」
 小島が嫌味たっぷりに言った。教室のみんながクスクスと笑う。駅の彼女がこの場にいたら、笑ってくれていただろうか。まだ目にしたことのない、彼女の笑顔を想像すると、叱られているにも関わらず、心が温かくなった。確かに、僕は根性がついたのかもしれない。

 

 また年が明けて、1月になった。寒さが増すと共に、僕の体質量も増しているように感じた。
「水島、体重増えた?」絵里が尋ねた。
 絵里は、同じクラスにいる女子だ。席が近いこともあり、たまに話しかけてくる。
「ああ、まあ、増えたといえば、増えたね」太った?という意味で聞かれているのか、分からなかった。
「なんか…厚くなったやんなぁ」絵里が、そのビー玉のように大きな目で、しげしげと僕の体を眺める。
「ありがとう」
「褒めてるつもりじゃなかってんけど」
「あぁ」
 僕自身、体格が変わっているかどうか、定かではなった。ジムでのトレーニングは、順調にウェイトを重くしていっていたが、それが僕の体の厚みに、どう作用しているのかは分からなかった。
 僕は購買部まで走り、斎藤さんに、絵里との会話を報告した。
「まあ、高校生の成長は早いからね」
「なるほど」
「で、あんたはそのクラスメートの女の子にそう言われて、嬉しかったんだ?」
「分からないですけど、なんか小恥ずかしいというか、こそばゆい感じです」
「はんっ」斎藤さんは鼻で笑う。これまでの斎藤さんとの会話で、嘲笑されなかったことが無い。「あ」や「え」、「まあ」といった枕詞の代わりに、斎藤さんは鼻で笑う。

 僕はまた彼女を見かける。吹きさらしの、京都府の駅のホームで。彼女はバーバリーのマフラーを巻いていた。心なしか、化粧がだんだん濃くなっていっているような気がする。紅茶の缶は未だに、彼女の両手の間にちょこんと鎮座していて、それを見るとホッとした。
 彼女と同じ車両に乗り込んだ、ほとんど同時に。車内は相変わらず空いていて、僕らは(「僕ら」なんて言い方はおこがましいかもしれないが)ほとんど同時に、座席に座ろうと、した。そう、座ろうとした時だった。彼女と斜向かいの座席に腰を降ろそうと、体を屈めた際に、肩にかけていたエナメルバッグから教科書たちがドサドサと落ちた。バッグの口を開けっ放しにしていたことに気づいていなかった。
「あぁ」口から、思いがけず情けない声が漏れる。電車が動き出すと、重力に引っ張られるように、教科書の1冊が彼女の足元に滑っていった。
 顔から火が出るほど恥ずかしかった。腰を屈めたままの、惨めな姿勢で動けないでいると、彼女が足元の教科書を拾い、立ち上がり、渡してくれた。田植えでもするかのように、半屈みの哀れな姿勢で立ち尽くす僕に。
 お礼もいえず、笑顔にもなれず、ただ「すいません」としか言えなかった。彼女は何も言わず、はにかんだ後、席に戻った。

「水島、今日は張り切ってたな」同級生が僕の肩を叩いた。主将の「お疲れした」の掛け声と共に、円陣を崩した時のことだ。
 グラウンドはすでにプラネタリウムのように真っ暗になっていて、ナイター照明の明かりもおぼつかない。視覚が奪われる中、あたり一面に立ち込める水仙の香りだけが、冬の夜の訪れを五感で感じる唯一の手段だった。
「まあね」と返事した。つもりだったが、ほとんど掠れた音しか出てこなかった。普段は練習中に声を出さないのに、この日はやたらと大声を張り上げていたので、すぐに声が枯れてしまっていたのだ。
「声、出てへんやんけ」同級生は優しく笑うと、部室へと走って行った。
 暗闇の中、去っていく背中を感じる。暗がりに溶け込むように消えていく背中を見ると、何か大切なものを失ってしまったような気分になった。冬の陰気な影が、多感な僕の肩にのし掛かっているのかもしれない。そして、僕はそれを振り払う術を知らなかった。

「水島は、トイレマンやな」絵里が僕を指差して言った。ある日の午後、教室に戻ってきたときのことだった。
「なぜ?」僕は尋ねた。この歳になって、突然、新たな名をつけられることに困惑した。
「なんでって、水島、めっちゃトイレ行くやん。休み時間のたびにトイレに消えてんねんもん」
「それは、寒いし、よく紅茶を飲むからだよ」僕は机の上に置かれているリモーネの缶に目をやりながら反論した。できることなら、その不名誉なあだ名は避けたかった。
「なんでもええわ。ウチは水島をトイレマンってこれから呼ぶから」絵里は嬉しそうに宣言した。
「君はすごく、幼いね」
「トイレマンのくせに、うるさいわっ。ちょっとがっしりしてきたからって、調子乗ってんちゃうぞっ」そう言いながら、僕の胸をぺしっと、叩いた。撫でた、という方が近いかもしれない。とにかく、そんな風に触れられたのは初めてだったので、僕は動揺した。
「うわ、意外と胸板あるなぁ」
 絵里はそれからペタペタと僕の上半身を、物色し始めた。彼女は僕の筋肉で遊んでいるようだった。
 女子に体を触られたのは、鍛え始めてから初めてだった。僕は常に細い体格にコンプレックスを持っていた。そして、誰かに、特に女性に、触れられるたびに、コンプレックスを刺激されているように思い、不甲斐ない感情を抱いていた。だが、今、こうして触れられて抱く感情は、それまでの嘆かわしいものとは、全く別のものだった。
「なに、赤くなってるん?」絵里がケラケラと笑った。
「なってないよ」僕は絵里に背を向けて、席にもどった。

 次の日、彼女を駅のホームで見かけた。その日はいつも以上に寒く、いつも以上に、冷たい風を遮るものなどないように感じた。オープンカーでサファリパークを走るような、そんな無防備さの中、僕の胸にはぽっかりと穴が空いてしまったような気がした。
 彼女はバーバリーのマフラーを巻いて、初めて見たときよりも格段に濃い化粧で、隣に立つ男子の腕に寄りかかっていた。
 どうしたら良いか分からなかった。見てはいけない気がして、必死に目を逸らすも、いつも以上に僕の目は彼女に吸い込まれていった。正確には、彼女”たち”に。男子は彼女と同じトーンの制服を着ていて、背が高く、毛先を遊ばせている、軟派な奴だった。僕の方が、体格が良いのではないだろうか。腹の底に文鎮がずしりと沈んでいるような気分になる。
 傷つくと分かっているのに、それでも彼女たちを見てしまう。生粋のマゾヒストなのだろうか。一度も見たことのない笑顔を、隣の男子に向ける彼女を見るたびに、胸が痛んだ。身にまとった胸の筋肉は、なんのクッション材にもなってくれない。彼女はいつか、教科書を落としたときに見せた笑顔とは、全く質の違う顔を、軟弱な男に向けていた。心を相手にゆだねるようなその表情が堪らなく寂しかった。彼女が紅茶を持っていなかったことも、嫌だった。
 電車が到着する。授業に間に合うための最後の電車だった。僕は彼女と彼とは、同じ車両に乗りたくなかった。それどころか、同じ電車に乗りたくなかった。目の前に開かれたドアを無視する。乗車を拒絶し、ホームに直立不動で立つ。電車は少し躊躇したように、しばしの間、待っていたが、やがて諦めてドアを閉めると、無味乾燥に去っていった。

「珍しいじゃない、遅刻なんて」
 斎藤さんは購買部の前を横切ろうとした僕を呼び止めた。すでに、始業のベルは鳴り終わっていた。
「すいません」
「私に謝ったって意味ないじゃない。高校生に遅刻は、つきものだからね。コーヒーとフレッシュのような関係よ。で、なんで遅刻したの?」
 慰められているのか、詰められているのか分からなかった。とりあえず、電車を逃したと答える。
「なんで電車逃したの?」
 そこまで踏み込んで聞かれるとは思っていなかったが、あるいは、斎藤さんは何かを見透かしているかもしれないと思った。斎藤さんには、すべてを話してしまいたくなるような不思議な魅力がある。
「実は…例の駅で見かける女の子が、男と一緒にいたんです」
「まあ!」斎藤さんは棚に並べようとしていたカスタードパンを握りつぶした。
「ということは、朝帰りってことね!高校生のくせに、生意気ね!」
「朝帰り?」
「お泊まりして、そのまま一緒に登校ってことよ。お盛んね」
「え、お泊まり!?」声がひっくり返ってしまった。
「そうよ、お泊まりよ。あんた、男女がお泊まりして、やることなんてひとつしかないじゃない。お盛んね」
 耳を塞いでしまいたかったが、冷静に考えれば、そういうことだろう。いや、冷静に考えると、最寄り駅が一緒だということも考えられる。
「単に、駅が一緒の可能性もあるんじゃないですか」
「ないわよ、そんなの。あんた、一度でもその男を駅で見かけたこと、あるの?」
 言われてみれば、あんな男、見たことがなかったし、見たくもなかった。
「いやー若いって素晴らしいわね」
「え、僕、どうすれば」
「どうもこうも、ないわよ。どうしようもないわ。彼女は、彼とのエッチに夢中なんだから。お盛んね」
「やめてください…」僕はうつむく。丘の上のヘルス。宮本の言葉が頭をよぎった。体から力が抜けていく。
「あら、いっちょまえに傷ついているの?高校生のくせに、10年早いわよ。いいじゃない、傷ついて。男は、傷ついてパワーアップするのよ。筋肉と一緒よ。筋繊維にダメージを与えて、回復する時には前よりもっと強くなっているの。あんたは今、心に傷を負ったんだから、時が経って回復するころには、もっと強い男になっているはずよ」
「はぁ」おちょくられているのか、慰められているのか分からなかったが、とりあえず斎藤さんにお礼を言い、とぼとぼと教室に向かった。
 ガラリと教室のドアを開け、いつもの調子で教室の席に座り、黒板の方を見ると、教壇に立つ小島が絶句していた。
「水島、お前、遅刻しておいて、なんの悪びれもせんと普通に入ってくるとは、ええ根性しとんな」何人かのクラスメートがクスクスと笑った。駅の彼女がこの場にいたら、笑ってくれただろうか、でも、もう関係ないんだな、と思った。そしてそう思うことで、胸を自ら締め付けている自分がいることに気づいた。

 教室でリモーネの缶をぼーっと眺める。彼女と同じ紅茶を飲んでいるという事実だけが、地底深くに流れる水路のように、僕と彼女を見えないところでつなげているものだった。

 その日は、いつもより重いウェイトでベンチプレスに挑んだ。数回目の持ち上げ動作の際に、腕の力が限界を迎え、支えきれなくなったバーベルが顔面に向かって落下してきた。間一髪、両脇に位置するセーフティーバーにバーベルがぶつかり、直撃は免れたが、バーベルとベンチに挟まれて、身動きが取れなくなってしまった。すぐさまジムのインストラクターが駆けつけ、助け出してくれたが、「重いウェイトを行う時は必ず補助をつけてください」と注意されてしまった。みじめだった。パワーアップなんて、していないじゃないか。

 

 2月、寒さもいよいよ佳境に入った。十分に肉が増した体でも、寒いものは寒い。覆うものが厚くなっても、暑くなることはないのだろうか。慣れとは怖いもので、相変わらずこの季節になると、リモーネの紅茶を買い続けている。そして、トイレも変わらず近い。
 昼休み、校庭でボールを蹴る生徒たちを、3階の廊下の窓から眺めていた。
「水島、また紅茶飲んでるん?」いつしか、僕をトイレマンと呼ばなくなった絵里が隣に立っていた。
「寒いと、飲みたくなるから」
「それでまた、トイレ近くなるんやろ?いい加減学習しぃや」
「うるさいな」
「てか、外眺めて、なに黄昏てるん?かっこつけてんの?」
「つけてないよ。寒い中、よく走るなーって思って、眺めてただけ」
「あぁ」
 そういって、絵里は少し背伸びして窓の向こうを見ようとした。背の低い絵里がお団子頭を懸命に伸ばそうとしている姿は、本当に子供みたいだ。
「よう、昼休みに練習するなぁ」窓格子に手を乗せて、絵里がため息まじりにつぶやく。
「本当だよ。消化不良起こしちゃうよ」
「水島はお昼休みに練習とか、せんかったん?」
「しなかったね。栄養をきちんと摂ることを優先したかったから」
「ほえ〜」感嘆とも呆れともつかないような声をあげて、絵里は僕の体をジロジロと舐めるように見回した。
「サッカー部の子が言うてたで。水島、ほんまに体強くなったって。もともと下手ではなかったから、それで一気にレギュラーになれた、って」
「そっか」体を鍛え始めた理由の半分以上が、サッカーのためではなかったから、なんとなく、その部員に対して罪悪感を感じた。
「冬の大会も終わっちゃったからなー」
 僕はグラウンドから目を離し、正面に聳える山々をぼんやり眺めた。盆地の京都では、寒気がすり鉢の底に溜められているようにも見える。
 冬の陽光がうららかに差し込み、廊下に立つ僕たちを照らす。眩しさに目を細めると、うっすらと窓に反射する、絵里と僕のシルエットが見えた。小さな体に大きなお団子の頭と、紅茶缶を手に持つ、高くも低くもない背丈の、がっしりとした体格の、ふたつのシルエット。背後を、何人かの生徒が走り過ぎて行く。

 吹きさらしの駅のホームに、彼女がいた。あの日見た男は、いなかった。僕はたまたま、駅の自動販売機で買ったリモーネの紅茶を飲んでいた。彼女も、同じ紅茶を両手で大事に持っていた。電車が到着し、同じタイミングで、同じ車両に乗り込む。
 相変わらず車両は空いていた。手前の座席隅に腰掛けると、彼女が対角線上に座った。彼女の顔を正面から見るのは、初めてかもしれない。彼氏がいるだろう女性を眺めるのもなんとなく居心地が悪く、取り繕うように紅茶を口に運ぶ。すると、彼女も全く同じタイミングで紅茶を口にした。缶を降ろすと、目があった。自然と、僕らは微笑んだ。
「いつも、同じ電車でしたよね」彼女が僕に話しかけた。
 空耳かと思った。今、彼女は僕に話しかけたのだろうか?呆気にとられて、焦点を失ったように彼女をぼんやりと見つめる。ショートカットの黒髪に、そら豆のように小さな顔。大きな瞳は、雪景色の中に潜むベルガモットを思わせた。
「はい、いつも同じでしたね」はじめて彼女と交わす、言葉。
 電車はゆっくりとトンネルを抜けて、田園と茶畑を窓に映し出した。ところどころに、雪解け後が点在している。延々と続く景色のように、この時間も続いて欲しいと願う。
「X高校ですか?」彼女が尋ねた。
「はい、X高校です。えっと、もしかして、Y高校ですか?」聞きながら、もし彼女が本当にY高校に通っていたら、どうしようかと思った。宮本の言葉が頭を過ぎ行く。
「いえ、Z高校です」彼女は、にっこりと笑って答えた。Z高校は、Y高校よりもさらに先の町の学校だった。
 無情にも、電車がX高校の最寄り駅に到着する。あっという間だった。別れ際、彼女は手を小さく振ってくれた。
 電車を降りたとき、喜びで胸がはち切れそうになったが、すぐに、例の男の影がちらつき、暗澹たる気持ちになった。

「別にいいじゃない、男がいたって」
 斎藤さんはイチゴジャムパンを頬張りながら、購買部のカウンターに肘をつき、言った。
 休み時間、人影もまばらな購買部。僕は斎藤さんに、先ほどの電車内の奇跡を打ち明けた。はじめて、駅の彼女と言葉を交わしたこと、それでも男の影が気になって、喜んで良いのかわからないこと。
「男がいたって、会話くらい、良いに決まってるじゃない。あんた、ピュアすぎじゃない?もう高校3年生でしょ。もっと器用に生きないと、この先苦しむわよ」
「いや、会話することに罪悪感はないんですけど、手放しに喜べないとうか」
「なんで手放しに喜べないのよ。手を放さなければ喜べるわけ?」
「なんというか、初めて彼女と喋れたのは嬉しいんですけど、でも、あの子は結局、例の男の彼女なんだな、と思うと、複雑で」
「私の読みでは、彼女、その男とはもう別れているわよ」
「え、もう?」
「もうって、あんた。駅でその男と彼女が一緒にいるのを目撃したの、もう1年前じゃない。高校生の恋愛なんて一瞬なんだから。最後にその男を見たのって、確か去年の1月じゃない?」
「はい」
「じゃあもうとっくに別れているわよ。そういうもんよ」
「そういうもんですか」
「それにしても、あんたも一途よね。もう高校3年生で、もうすぐ卒業でしょ?初めてその、例の駅の彼女を見たのが、確か高校1年生の12月くらいよね。私がこの学校で働きだしたのが12月くらいだから。それで、高校2年生になって、たしか1月よね?男がいたー!とかバカみたいに泣きちらかして」
「泣いていないです」
「それで、もう高校3年生の、2月よ。あんた、再来月から大学生よ?それが、初めて喋った、だの、男がいるかもしれないだの、いつまでも子供みたいなこと言ってるんじゃないわよ。この、元もやしっ子」
 3年近く経っても、斎藤さんは未だに僕の名前を覚えていなかったが、自らがつけた名称は覚えている。
「それにしても、1年生の12月から、今まで、ずっとその子のことを見ているなんて、ストーカーみたいで気持ち悪いわね」
「はぁ」
「まあ、一途っていえば、一途なんだけど」
「ずっと好きだったわけでは、ないです」
「あー、絵里ちゃんと付き合ってたんだっけ?」
「付き合っていないです。廊下でよく喋るだけです」
 廊下で僕と絵里が楽しそうに喋っている姿を、よく目にする、という粗末な理由で、僕らが付き合っている噂が立ったことは知っている。あまりに幼稚な噂だったので気にしないでいたが、まさか斎藤さんまでその噂を知っているとは思わなかった。
「あんた、私の娘に合わせてみたいわ。そんな一途な男、素敵じゃない」
 筋トレをしているからか、斎藤さんは実年齢より若々しく見える。ショートカットの黒髪に、小さな顔、大きな瞳。僕と同じ駅のジムに通っている。この学校にやってきたのは、確か僕が1年生の12月そこらだった気がする。

 構内の自販機へ向かい、硬貨を入れる。元もやしっ子。先ほどの斎藤さんの言葉を思い返し、苦笑する。もやし以下の僕に自信をつけさせてくれたのは、斎藤さんだった。卒業しても、たまに会いに来ようかな。ゴトン、と、リモーネの缶が落ちてくる。
 その前に、明日は自分から話しかけてみよう。顔の小さな、雪の結晶のような駅の彼女に。まずは、名前を知ることから始めよう。