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読書感想文/マーケティング/エッセイなど。基本的にフィクションです。

光り輝くクズでありたい

AV男優のしみけんさんは非常にストイックで、僕は、彼のそんなところを尊敬している。

AV男優への志願欲があるわけではない。しかし、定期的にトレーニングに勤しみ、毎朝、しっかりと栄養を補給する彼の生活は参考になるし、真似をしたいと思っている。
起床後、真っ先にBCAAを常温のポカリスエットで流し込み、コーヒーを飲んでからエアロバイクを数十分漕ぐ。コーヒーは脂肪を燃焼させる効果があるために飲んでいるという。

軽い有酸素運動のあとに、鳥のササミ、納豆などの高タンパク朝食。そして、プロテイン。理想的な朝の使い方ではないか。

画面に映る者として、身体を作る必要があるしみけんに対して、何のアスレティック的な目標のない僕は、しかしそういった生活に憧れを持つ。

規則正しく生活するのが好きなのだ。もっというと、そういった生活をしている自分が好きなのかもしれない。
運動して、栄養を摂取する。身体に良いことはもちろんだが、一番の効用は精神への作用ではないかと思う。「身体に良いことをしている」環境では、精神も落ち着き、非常に健全なメンタルヘルスの状態になる。

これは禅の教えに似ている。禅の基本的スタンスは、「精神は自分で直接コントロールできない」だ。直接、心を正すことはできないので、先ずは体を正そうとする。具体的には、姿勢を正す努力をするのだ。結跏趺坐(けっかふざ)の型で座り、背筋は伸びているか、頭は首の真上に位置しているか、体は左右に流されずまっすぐに立っているか、意識して正す。姿勢を整えたら、次は呼吸を整える。吐く息、吸う息に意識を集中する。呼吸が整ったら、次第に心も整っていく。
つまり、物理的な体(姿勢、呼吸)を整えることで、目に見えない精神も自ずと整っていくという考え方であって、同じ理屈で、規則正しい生活も、精神を整える作用があるのではと思う。

早起きもメンタルヘルスにとっては良い。世の中がまだ眠っていることを意識しながら、すでに動いている自分をリスペクトできる。

 

しみけんさんの著書、『光り輝くクズでありたい』を読んで、早速BCAAを購入した。
僕は、割と影響を受けやすい。
7月からウェイトトレーニングを始めているが、中々サイズもウェイトも上がらずに困っていたので、BCAAサプリメントでどう変わるか楽しみである。

また、爪やすりも購入した。しかも、ボヘミアンガラスの爪やすり。男優たちの間で流行っているらしい。

改めて断っておくが、AV男優への志願欲は、無い。

 

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僕が愛したゴウスト

扉を抜けると、そこは5分後の未来だった。


異世界に紛れ込んでしまった経験はあるだろうか。
僕は、ある。
正確には、幼心に異世界と信じて疑わなかった世界での経験に過ぎないのだが。

 

小学1年生の頃だった気がする。季節を正確に覚えていないのだが、薄着の割には、早々に陽が落ちて、赤とんぼが飛んでいたから、おそらく秋だったのだろう。
周りの景色や気温よりも、未来に到着したと感じた瞬間の、胸の高鳴りと一抹の不安の方が鮮明に記憶に残っている。

 

近所に3つ上のお姉さんが住んでいた。彼女は僕の同級生の姉でもあり、僕の姉の友人でもあるのだが、とにかく彼女は僕にとって3つ年上のお姉さんだった。頻繁にお家にお邪魔していた。
詳しい経緯は覚えていないのだが、僕はその3つ上のお姉さんと近所を散歩した。名古屋の住宅街には昔ながらの家が多く、トタン板の塀や、ひしゃげた屋根を携えた家が点在していた。

 

裏路地に入ると、そういった古びた家の存在は一層顕著になり、錆びた自転車や物干し竿など、生活臭がメタンガスのようにあたりに充満していた。

 

ふと、お姉さんが扉の前で立ち止まった。赤焦げた、ドアノブ式の勝手口の扉だった。なんてことはない、ただの薄い木の扉だ。
「翔くん、この扉には、絶対に何かあるよ」
お姉さんは真面目に言っているようだった。そう言われると、無垢な僕は「うん、うん」と信じ込んで、目を輝かせた。何の変哲もないただの扉が、途端に異質な雰囲気を湛えて見えた。
「きっと、5分後の未来に通じている扉だと思うんだ」
お姉さんは僕より3つ年上で、当時小学四年生だったので、年不相応にファンタジーに通じていたのだと思う。
僕は「えーっ」と声をあげながらも、未来に行ったらどうなってしまうんだろう、と怖くなった。同時に、およそ自分しか経験できないだろう目の前の機会に、胸が跳ね上がった。
「扉、通ってみようか」
お姉さんは僕の目を見て言った。「え」と、僕は躊躇した。扉は勝手口だったので、恐らくこの家に住んでいる見知らぬ誰かの中庭に通じているのだろう。怒られないかな、と率直に思った。
「大丈夫!私たちは中庭じゃなくて、未来に行くんだから」
小学一年生にとって、小学四年生の声ほど説得力のあるものはない。僕たちはドアノブを回し、扉を開いた。

 

扉を抜けて、中庭を抜けると、見慣れた路地が目に飛び込んできた。しかし、そこが5分後の未来だと"分かっていた"僕は、目に入るその世界に違和感を感じた。どこか、ぎこちないのだ。
すでに夕暮れ時で、数匹の赤トンボとカラスの鳴き声が、赤く染められた空っぽの空に舞っていた。道行く人は、元の世界よりも、さらに他人だった。世界に心がないように感じた。
「うしろは降り向いちゃダメ。過去の私たちがいるかもしれないから」
路地を少し進んで、お姉さんの家の前に戻ってきた。どこか、寒々とした佇まいだった。

 

僕たちはこの未来の世界において、Strangerだった。ここにいていいのだろうか。戻る手立てはあるのだろうか。早く戻らないと。僕は焦った。
「もとの世界に戻るには、どうしたらいいの?」
「こっちだよ」
僕はお姉さんに手を引かれて、例の扉に戻ってきた。幼いながらも、そうか、また、この扉を通ればいいのか、と早合点していたが、お姉さんの答えは予想外のものだった。
「この扉を、蹴り続けるの。5分間」

 

「えっ」

 

僕は、僕の手を引くお姉さんを見上げた。お姉さんの目は好奇によって塗り固められていた。
それから僕たちは扉を蹴り続けた。「この、扉めっ!」「こいつ!」「くたばれ!」「扉!この!」なんて叫びながら、二人して薄い木の扉を蹴り続けた。
「こらっ!」と住人の親父に怒鳴られた。当然だろう。僕たちはゴキブリのように一目散に逃げ出した。怒鳴られた驚きと、未来を旅した事実に、心臓はずっとバクバクしていた。


打海文三の『僕が愛したゴウスト』を読んだ。小学5年生の少年が事故を境に、それまでとはどこか違う世界に迷いこむお話。その世界に住む人々には、心がなくて、尻尾がある。


扉を抜けた日を境に、僕の世界がすっかり変わってしまった。なんてことは一切ないのだが、お姉さんの中二病をしっかりと引き継いだのはこの日なのかもしれない。

叫び声

「することないなら、ワクワクすればいいんすよ」とは、職場の先輩の言葉です。
自分の青春がどのような時代だったかを振り返ると、大概、根拠もなくワクワクしていたような気がするのですが、気持ちを昂ぶらせるだけで満足する、実態の無い妄想が一人歩きしていたような時期だった気がします。

 

「青春とは、自分だけには特別あつらえの人生が待っている、と無根拠に思っている時期のこと」とは三島由紀夫の言葉ですが、まさに僕がその体現者でした。自分は特別で、いつか自由に風を操る能力を手に入れる日が来るんだ、と。

 

大江健三郎の『叫び声』を最近になって読みました。特別の出来事を経験してこなかった主人公が、不穏で奇妙な生活に巻き込まれていくのですが、二十歳の僕も、いつかそんな「普通ではない」生活に呑まれたい、と思いながら日々を過ごしていたように思います。知らず知らずのうちに、平凡な生活にコンプレックスを抱いていたのかもしれません。

 

自分にはそんな特別あつらえの時期などなかったように思いますが、人との違いがあるとすれば、海外での生活でしょうか。思春期にアメリカに6年間暮らした経験こそ、自分は特別だと思い上がらせた要因の種かもしれません。

 

小説の主人公がヨーロッパへ旅行にいく場面があるのですが、僕も高校一年生の夏に、父の住んでいたイギリスを訪れたことがあります。

 

貧乏故に陰鬱な旅行を辿った主人公のように、(愚かにも)当時の僕も、家族との移動と、毎度現れる同じ景色に辟易していた記憶があります。思春期には、綺麗な景色は刺さらないのでしょう。

 

そんな中、強烈に印象に残っているのはエジンバラに宿泊した際に出会った、ホテルのフロントの女性でした。金髪にターコイズブルーの瞳、軽薄さを微塵も感じさせない上品な佇まいは、息を飲むほどにシャリーズ・セロンでした。

 

あまりの美しさに、朝食時、ビュッフェを食べながら、柱を死角に、フロントの方を何度も盗み見してしまいました。そして、なにをトチ狂ったか、僕はフロントまで赴き、彼女に「写真を撮らせてください」とお願いしたのです。

 

まさに大胆不敵。

 

まるで、ペプシ・コーラの広告契約に関する記者会見の席で、レッドブルをちびちび飲むブリトニー・スピアーズのような、大胆不敵さでした。
今振り返ると自分でも、なぜあんな行動を取ったのか理解できません。

 

女性は瞬くように驚いていたものの、笑顔で快諾してくれました。
今振り返ると、よくOKしてくれたな、と思います。
今は懐かしい二つ折りの携帯電話でパシャりと撮影し、お礼を言うと、彼女の返事は綺麗なイギリスアクセントの英語でした。

 

まるで小説のワンシーンを切り取ったような、少し現実離れした出来事に酔ってしまったのか、帰国してからもしばらくの間、僕は彼女の写真を携帯電話の待ち受け画面に設定していました。

ひょんな拍子に、同級生の女子に待ち受け画面を見られたことがありました。待ち受け画面というほどですから、携帯電話を開けば当然、目に入ります。
目敏い女子はケータイのそれを見逃さず、「ちょっと待って。今の、誰?」と聞いてきました。
恐らく海外芸能人の誰々、といった答えを期待していのかもしれません。
僕は、「旅行先のホテルで働いていた女性」と答えました。女子は、「え、キモ」と本気で引いていました。
そうか、旅行先のホテルで働いていた女性を待ち受け画面に設定をするのは、キモいのか、と、身に沁みて感じたことを覚えています。

 


ADIDASって、なんの略か知ってる?All Day I Dream About Sho,だよ」とは友達の言葉です。そうか、毎日夢に出てくるくらい、僕は特別なのか、と妙に納得したことを覚えています。中学生の時です。

 

さて、これまで特別な出来事のない日々を過ごしてきましたが、だからと言って、自分が特別じゃないと決めつけてしまうのは尚早かと思います。
自分は普通だ、特別なんかじゃないと決めつけた瞬間に、何かこう、エネルギーがポッキリと折れてしまいそうな気がするのです。

 

今もこれからも、自分は特別だと勘違いしていこうと思います。
なるほど、三島由紀夫の言葉を借りれば、僕は今も、青春の時期にいることになります。

 

今週のお題「読書の夏」 

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Happy Wedding Onigiri

「俺が握ったおにぎり、食べられる?」
突然の質問だった。
土曜の昼下がり、幼馴染のタケの結婚披露宴。旧友たちが囲む円卓を突き破る、竜太の突飛な質問。
「どうしたの、急に?」
高砂に座る新郎のタケと新婦を横目に、軽やかに談笑していただけに、あまりに唐突な問いに対して、僕たちはただただ、聞き返すのがやっとだった。
「俺、ムリなんだよね。おばさんとかが素手で握ったおにぎり、食べられないんだよ。お母さんでもムリ」と、竜太。
色々と聞きたいことはあった。誰であってもダメなのか、コンビニのおにぎりは大丈夫なのか、なぜこのタイミングで聞くのか。
「えっと、誰が握っても、ダメなの?」
「ダメ。特に、おばさん」
「うん…コンビニのおにぎりは大丈夫なの?」
「コンビニのは、多分、機械で作られているじゃん?だから、大丈夫」
「寿司は、大丈夫なの?」
「寿司は大丈夫」
「なぜ?」
「職人が握っているから」
「そうか…なんで、急に質問したの?」
「テレビで、最近おにぎり食べられない若者が増えているって。急に思い出したんだよね」
そこで竜太は身を乗り出し、
「俺が握ったおにぎり、食べられる?」と、精強な瞳を輝かせ、再び訪ねた。
エキセントリックな性格は、昔と変わらなかった。

 

竜太と初めて会ったのは、確か大学1年生の時だったと思う。タケと僕の二人で近所の神社へ初詣に行くと、ニット帽を深く被った竜太がいた。凍えるような新年の夜空の下、僕たちは焚き火のそばで喋った。
そのころの竜太は高卒で入社した会社を辞めて、ニートになっていた。にも関わらず、年上の彼女を略奪愛の末、高収入の年上の男から奪い、毎日のようにヤっているという話を吹き散らしていた。刺激や性の経験に乏しかったタケと僕は、見知らぬ世界のおとぎ話のように、目を輝かせて彼の話に耳を傾けていたことを覚えている。

 

その竜太が、素手で直に握られたおにぎりを食べられないという。

 

「なんか竜太の話を聞いてたら、俺もおにぎりダメなように思えてきた」と、円卓に座る坂上が言った。その坂上を、「お前はすぐに感化されるな」と、隣に座る北斗が茶化す。
北斗は今も昔も、相変わらずSっ気を発揮している。

 

小学校の夏休みに、北斗、タケ、僕の3人で大きな屋外プールに行ったことがある。北斗の家族に付き添ってもらったと思う。プールの中、北斗は内気でシャイなタケを玩具のように、もて遊んでいた。水中でタケを踏み台にして、大きくジャンプ。する方もされる方も、大きく笑っていた。
照りつける太陽の下、三人並んで、濡れた体を伝う水滴を眺めた。「暑いから、すぐに乾くな」なんて、子供のはしゃぎ声が飛び交うプールサイドで、大人びたことを言っていたことを覚えている。

 

内気でシャイな新郎のタケから、信じられないくらいクサくておシャレなサプライズメッセージが新婦にプレゼントされた。
「さっきはドレスの裾を踏んだ、踏んでいないで喧嘩したけど」これからも二人で、なんて言葉に頬が緩む。あの内気でシャイなタケが、女の子と喧嘩をするんだ。奥さんの頬を伝う涙は、すぐには乾かなかった。


乾杯の挨拶の失敗を、いつまで経っても気にする、かーくん。いや、全然、失敗はしていないのだけど。本人の中で、どこか納得がいかなかったらしい。
高校生の時に、かーくんとタケと僕と他数人で愛知万博に行った。朝早く出発し、4月の青空の下、自転車を走らせた。
花粉症の僕は鼻を噛んでばかりいて、そんな僕を、実は少し意地悪なタケは笑った。
結婚披露宴の日、僕は風邪気味だった。鼻水がひっきりなしに垂れてきて、ティッシュを手放せない。そんな僕を、実は少し意地悪なタケは、また笑っていたのかもしれない。

 

タケの弟の洋平が、ものすごく男前になっていて、びっくりした。
最後に会ったのは彼が中学生のときだから、当たり前だけど、大人になったんだなぁと、感慨に耽る。

 

僕らが小学生のときに、洋平は頭に火傷を負った。
近所の駐車場で、みんなで花火を楽しんでいたときだ。火薬のような匂いが辺りに漂う真夏の夜。線香花火を手に持ったタケは、意図的にそれを、洋平の頭上に掲げた。線香花火の火の玉は、重力に忠実に従い、洋平の頭に落ちた。
叫び声があがるまで、数秒のタイムラグがあった。恐らく髪の毛を焼き尽くして、地肌に到達するまで時間がかかったのだろう。5秒間の空白と、弟の悶える姿がどうにもおかしかったのか、タケはひゃははと、腹が千切れんばかりに笑い転げた。
内気でシャイなタケが見せた、初めての暴力的な一面だった。
洋平の頭に出来た小さな丸いハゲは、治ったのだろうか。

 

家が近かったので、タケの家には頻繁に遊びに行った。
「パグ」と安易に名付けられたパグ犬が待つ玄関を抜け、お母さんやおばあちゃんに挨拶をしたら、大抵2階のタケの部屋で漫画を読むか、1階のリビングでパワプロをする程度だったけど。あのおばあちゃんも、もう、89歳なのか。お色直しのために退出する新郎のタケを、おばあちゃんがエスコートしていた。

 

僕がアメリカに行ってからも、帰国や帰省をするたびに、タケは会ってくれた。彼に初めての彼女ができたと聞いたのは、確か大学生のときだったと思う。名古屋駅地下の商店街で、写真を見せてくれとせがんだことを覚えている。
高砂に目をやると、そのときの彼女が今、タケの隣に座っている。

 

「体が弱く、内気な息子は、入学してもやっていけるのか。小学校入学の前夜、夫婦で不安げに話していたのを覚えています」最後に、お父さんの挨拶。
そんなタケと、僕たちは幼稚園のころからつるんできた。
タケ、結婚おめでとう。

自堕落な曲

 Miley CyrusのWe can't stopが好きです。
「私は私のやりたいようにやる、誰も私たちを止められないわ」といった内容の、若者の勢いそのままの歌詞なのですが、単なる軽薄なパーティーソングに終始していないところに好感を抱きます。

 マイナーな曲調の影響かもしれませんが、どこか、芯の通った覚悟を持つ、宣誓のように聞こえるのです。背後に哀愁を携え、周囲に中指を立てる。内容は、結局のところホームパーティーなのですが、まるで新時代のパンクを思わせるこの曲が好きです。

 曲が発表された辺りでしょうか。髪の毛をバッサリ切り落とし、My Wayを突き進む覚悟を体現して見せ、周囲を驚かせた、彼女自身の心境の変化も影響しているのかもしれません。
 覚悟を持った自堕落さがなんともパンクで、繰り返し聞いてしまうのです。
 Bruno Marsがカバーしたものがあれば聞いてみたいとも思います。


 覚悟を持った自堕落といえば、Amy Winehouse。浴びるほどのお酒を飲みながら絞り出すValerieは何度聞いても飽きません。曲中に何度も「Valerie〜♪」と連呼していてようが、飽きることはありません。

 Bruno Marsが彼女へのトリビュートとして、グラミー賞のステージでValerieを披露しているのですが、軽快なサウンドとステップとは裏腹に、歌いながら泣いているのではないか疑うほど、彼女への愛が滲み出ている、素晴らしい演奏でした。

「Why don't you come on over, Valerie」
 心の中では、ValerieをAmyと置き換えて歌っていたのかもしれませんね。もうあなたはここにいない、そんな寂しさが聴こえるようです。


 自堕落、という意味では、少し古いですが、Barret StrongのMoneyも非常に退廃的な、滋味豊かさがあります。
「欲しいのは金だぜ」
 清々しいほどに開き直ったメッセージには、欲望と素直に向き合う、人間の強さを感じずにいられません。

 Bruno Marsがこの曲をカバーしており、アコースティックギター1本で歌い上げる姿は圧巻です。邪推ですが、この曲から「billionaire」のインスピレーションを受けているのだと、勝手に確信しています。


 お気付きですか。一番好きなのはBruno Marsです。

トイレへの思い

 トイレに対して、人並み以上の思い入れがあります。
なぜそうなったのかは判然としませんが、恐らく人並み以上にトイレが近いからでしょう。
ザイオンス効果」をご存知でしょうか。接する回数が増えるほど、親しくなる作用です。僕とトイレの関係は、単純接触回数の多さの結晶です。

 

 シャワートイレの素晴らしさについて、今さら語るまでもありませんが、それを差し引いても、昨今のトイレは素晴らしい発展を遂げています。
 水、石鹸、乾燥が一体となった手洗い場なんて、昔から「こうなればいいのに!」と思い描いていた姿そのものです。(すみません、便利な物が現れると「自分も思っていた」と主張したくなるタイプでして)

 

 突然、なんのカミングアウトかと訝しまれるかもしれませんが、座って用を足すタイプです。大はもちろん、小も。大は小を兼ねると言いますから。

 

 それはさて置き、トイレに対して人並み以上の思い入れがあると、時に許しがたいことも起こります。人並み以上の思い入れは、得てして人並み以上の狭量をもたらします。


 会社の便座に座っていた時でした。五つ並びの真ん中の個室に陣取っていたことを覚えています。

 弱すぎもせず、強すぎもしない「中」の位置が点っていることを確認し、いつものようにシャワーのボタンに手をかけます。

 

 異変に気がつくのに、時間はかかりませんでした。

 

 今か、いまかと待ち構える黄門様に、来るべきはずの助さん格さんが一向に参らないではないですか。ウィーンという無機質な機械音と、ちょろちょろと流れる水のせせらぎが聞こえるばかり。もう一度シャワーボタンに目をやるも、「中」の位置は点ったまま。
 一旦停止し、再びシャワーを試みるも、一向に紋所が目に入ってきません。

 

 不具合、という結論に至るまでに、時間はかかりませんでした。

 

 怒りと不安が同時にこみ上げてきます。「この御方をどなたと心得る!」助さん格さんの怒号が頭を飛び交います。どうにか、黄門様を鎮めなければいけない。

 

 ここを出よう。そう決意するまでに、時間はかかりませんでした。

 

 幸い、トイレに人の気配はありません。とはいえ、交通量の多い社内のトイレ。いつ、人が入ってきてもおかしくありません。迅速に移動しなければ。

 

 待ちわびる黄門様をひっさげ、ズボンを膝下にひっかけたまま、個室を後にしました。膝を曲げ、半屈みの姿勢でカニ歩き。お尻は丸出し、手にはトイレットペーパーの欠片。万全の受け入れ態勢。クレヨンしんちゃんも嫉妬する、ケツだけ星人です。
 見る人が見れば、ゆみかおるもびっくりの濡れ場シーンでしたが、幸い誰にも見られず、事なきを得ました。

 

 なんの話でしたでしょうか。取り止めがなくなってきたので、このへんで。トイレに行ってきます。

部屋について ふたりごと

 お題を与えられると、カーペットの染みのように、その一点を中心にジワジワとイメージが広がっていくのですが、テーマを選べと言われると、なかなか難しいものがあります。興味深いテーマとは何か、それは書き切れるものなのか、面白いのか、等々。
 選んだ後のことを気にしすぎて、安易に決められないのでしょうね。自分が選ぶ立場に立たされると、石橋を叩きに叩いて、結局渡らないタイプです。

 

 テーマというほど壮大なものでもないのですが、「住まい」についてここ数日、思いを巡らせています。
 引っ越し、出張、旅行など、様々な部屋に根を張る機会に恵まれてきたのですが、全ての部屋に共通することは、空間が広いと居心地が良いということです。何をそんな当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、僕の中で最近になってたどり着いた結論です。
 ベッドの大きさは同じでも、部屋の空間が広いと、それだけで満足度に大きな違いが出ます。不思議ですね。僕にとって良い住まいとは、空間の広さそのものです。広い空間はそのまま、満足感や安心感に繋がります。

 

 そういった意味では、大学3~4年生時に住んでいた下宿先の部屋は、満足感や安心感とはおよそ対極にある、閉塞感に満ちた豚小屋でした。

 

 間取り図に堂々と記載された「六畳」は、体感としては四畳程度でしたし、窓は鉄格子のついた牢獄のそれを思わせるような小ささで、おまけにバルコニーもありませんから、洗濯物を吊るすために、苦労して、屋根に紐を括り付けたことを覚えています。
 壁は湯葉のように薄かったです。隣人の趣味なのでしょうか、重厚なベース音が常々、豚小屋に轟いていました。僕が豚ならストレスでやせ細っていたでしょうが、当時の僕はお金がなかったので、それはそれでやせ細っていました。

 

なぜそんな豚小屋に住んでしまったのでしょうか。

 


 大学2年生の暮れ、僕は引越しを検討していました。通っていた大学では、3年時からキャンパスが変わるため、そのタイミングで住まいを変える学生が多かったのです。
京都の郊外から市内にキャンパスが変わるタイミングでの引っ越し。僕はそれまでの反省を踏まえて、「とにかく大学から近い物件」ただ一点にフォーカスし、物件を選びました。1~2年時は、下宿先と大学に距離があったため、次第に大学に足を運ばなくなってしまったためです。

 

 そして見つけた、おあつらえ向きの物件。なんと、大学から通りを一つ挟んだだけの距離。夢の徒歩30秒です。
「それでは来週、内覧にいきましょう」爽やかな笑顔で、不動産会社の男性スタッフが言いました。今思えば、こやつが全ての元凶でした。

 

 翌週、男性スタッフが運転する車に乗り込み、物件へと向かいました。車内には男性スタッフ、僕、そして他物件の見学のために乗り合わせた母娘の親子一組がいました。
物件までおよそ1時間弱のドライブ。当時の僕は愛想が良かったので、その若い男性スタッフと、助手席から色々な話をしました。好きな音楽は何か、どのような音楽を聴くのか、音楽は好きか、等々。
「え、Radwimps好きなんですか?」
「好きですよー。歌詞、良いですよね!」
 なんて、女子みたいな会話で盛り上がったことを覚えています。

 

 すっかり打ち解けた僕たちは、そのままの勢いで京都南インターを降り、お目当の物件に車を横付けさせました。シートベルトを外そうとした瞬間、先ほどまで「『ふたりごと』が大好き」などとはしゃいでいた男性スタッフが突然、「今からお前に何話そうかな、どうやってこの感じ伝えようかな」なんて神妙な顔になり、こう言いました。
「実は、まだ部屋が空いていないため、中に入れないんですよ」

 

 神様もきっとびっくり!

 

 思わず男性スタッフと物件を交互に、二度見しました。インド人も2度ビックリです。今世紀最大の突然変異ってくらい、態度の豹変したスタッフをまじまじと見つめます。頭の中でリフレインする『ふたりごと』。ここまでの時間はなんだったのか。なんのためにここまで来たのか。野田 洋次郎の歌声が止みません。
時に嘘つかせないで。

 

「まだ住民の方が住んでいるみたいで、内覧できないみたいなんです。ごめんなさい」

混乱で頭がいっぱいでしたが、せっかく仲良くなったこのスタッフ相手に、「時に嘘つかせないで」なんて、そんなセンチメンタルな文句も言えるはずがなく。

 

 うつむく僕。車内にほとばしる緊張感。固唾を飲んで様子を見守る、後部座席の親子。どうか、機嫌を損ねないで、と彼女達の心の声が聞こえるようでした。彼女たちの内覧には、僕もついていくのです。

 

「外の感じだけでも、見ていただこうかと」と、男性スタッフ。
なるほど、焦げたレンガ調の外観は、どことなく大学の校舎に似ていて、親近感が湧く、ってバカ!

 

 当時の僕は(今もそうですが)思考が浅はかでしたので、
「そうですね、外観は可愛らしいですよね」といってその日のうちに物件を契約してしまいました。

 

 この決断は、僕の人生において、カーペットの染みのような汚点となっています。