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読書感想文/マーケティング/エッセイなど。基本的にフィクションです。

小僧の神様

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それは秋らしい柔かな澄んだ陽ざしが、紺の大分はげ落ちた暖簾の下から静かに店先に差し込んでいる時だった。〜
「おい、幸さん。そろそろお前の好きな鮪の脂身が食べられる頃だネ」
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一文で季節と情景を描き、一言で味覚を刺激する。こんな端的に五感を表現したいものだ。そして願わくばこんな通な会話をしてみたい。
「旬」の食材を楽しむことは、単なる美食よりも、よっぽど深く「人生」を堪能しているような気がする。
 
昔から肝心な部分を端折る僕は、文章においても(悪い意味で)短くまとめたがる癖があった。女性的な柔らかな文体に、殊の外憧れたものだった。
いつだったか忘れたが、小説の神様の存在を知り、神様が書く文章は無駄が全くそぎ落とされた、洗練された短文だということを知った。初めて志賀直哉の小説を読んだ時に、そのあまりに潔い簡潔さに、「これでいいのか」と驚いたことを覚えている。なにしろ、ほとんどの文章が「た。」「だった。」で終わるのだ。
 
小僧の神様は「著者はここで筆を置く」という、作者が文中に現れる、ある種の手塚治虫のようなコミカルな技法が取られている一方で、善事の裏に潜む後ろめたさの正体をさらりと描いてしまう一面もある。
小僧にご馳走を働いたA氏がなぜか後ろめたさを感じている内省的な部分には、どうしてこうも人の感情を有り体に表現できてしまうのか、唸らされる。
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小僧も満足し、自分も満足していた筈だ。人を喜ばす事は悪い事ではない。自分は当然、喜びを感じていいわけだ。ところが、どうだろう、この変に淋しい、いやな気持ちは。何故だろう。何から来るのだろう。丁度それは人知れず悪い事をした後の気持ちに似通っている。
若しかしたら、自分のした事が善事だと云う変な意識があって、それを本統の心から批判され、裏切られ、嘲られているのが、こうした淋しい感じで感ぜられるのかしら?
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ここ最近、良い人になりたいと思うことが多い。裏を返せば、良い人ではないから、そういった善人に憧れているのかもしれない。良い人になるためには何をすれば良いのか考えたのだが、やはり目の前の困っている人を助けることから始めてみるべきかと。
座席を譲る、背後の人のためにドアを開ける、エレベーターの「開」ボタンを押し続ける。そういった当たり前のことを徹底してできるように、まずは人間としてのリハビリをしようと思う。