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オスマン帝国の復興

『大世界史』を読んで

世界史を学ぶことで、これまで点在していた各国の今の動きが、線で結ばれた気がした。

『大世界史』の本の趣旨はまさにそこで、起きている事象の背景、つまり歴史を理解することで、現在の立ち位置を正しく把握する。そして、流れの中で事象を捉えられるので、今後の動きをある程度予測することができるのだ。

トルコ、イラン、ロシア、中国など、かつて帝国だった国々が、現代の時代において帝国復興の動きをみせていることがとても興味深かった。
特にオスマン帝国の復興を企む、トルコのエルドアン大統領。自身の権威主義的な動きへのクーデターを恐れ、すべての食べ物を毒味させているという。
個人的に非常に興味が湧いたので、オスマン帝国の歴史を調べてみることにした。
当然、周辺の中東世界やイスラムの歴史も重要なファクターになってくるので、併せて調べてみた。本記事では特定の箇所を深堀りすることはせず、全体の要素が、それぞれどうつながっているかに重きをおくようにしてみた。

なお、調べてみたものは大きく以下の4つ。
オスマン帝国の歴史
・今日のトルコの動き
イスラムの歴史(主にスンニ派とシーア派の違い、カリフ制度)
・中東のキープレイヤーたち

オスマン帝国の歴史

オスマン帝国を一言でいうと、1299年から1922年までの約600年間君臨した「イスラム教スンニ派の大帝国」。スンニ派については後述するが、重要なのは、「イスラム教の帝国」だったということ。
支配層は主にテュルク系の人々。テュルク=Turk、つまりTurkey(トルコ)である。領内にはアラブ人、エジプト人、ギリシア人、スラヴ人ユダヤ人など、多数の民族から形成される複合的な多民族国家だった。

オスマン=ベイという人物が建てたから、オスマン帝国。元々はアナトリアという小アジア(地中海と黒海に囲まれた半島)に現れたトルコ人の遊牧民族の軍事的な集団が、オスマン帝国の起源とされている。そしてこの遊牧民族長こそが、オスマン=ベイであった。
オスマン=ベイはビザンツ帝国の弱体化に乗じて、独立させたアナトリア内の小国家の領土を拡大していった。

17世紀の最大版図における支配地域は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナハンガリーチェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。(http://goo.gl/maps/qOzm

この広大な支配地域こそがオスマン帝国の凄さのひとつ。東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、西アジア北アフリカイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くしていたのだ。

そして最も驚異的な点が、これだけ大きな領土の中に、いくつもの異なる宗教や民族が存在したにも関わらず、共存が成立していたということだ。オスマン帝国自体はイスラム教だったが、ギリシア正教アルメニア教会・ユダヤ教などの非ムスリムに対して改宗を強制しない、寛容な帝国だった。宗教的集団を基本的な統治の単位としていた。これをミレットというらしい。

また、皇帝を意味する「スルタン」が、イスラム教の最高指導者の称号である「カリフ」を兼ねるようになってしまったのも驚きだ。本来、カリフになれるのはアラブ人の「クライシュ族」という、預言者ムハンマドの一族だけ。ところがオスマン帝国をつくったトルコ人はその考えを覆し、スルタンがカリフを名乗った。これはアラブ諸国に衝撃を与えたが、それほどまでにオスマン帝国イスラム世界において支配的な存在であったことがうかがえる。

今日のトルコの動き

オスマン帝国が今日のトルコにどうつながっているか。近代トルコの父はムスタファ・ケマル・アタチュルクという人物。第一次世界大戦オスマン帝国が崩壊し、オスマン帝国軍の将校だったアタチュルクがスルタン制を廃止して、トルコ共和国を建国した。
トルコの近代は、一言でいえば「軍によって推し進められた近代化」。トルコの軍は、アタチュルクに心服して、「政教分離」の原則を絶対に守ろうとする。
現トルコ大統領のエルドアンは、この政教分離に反して、トルコのイスラム原理主義国家化を推し進めようとしている。彼のこの権威主義的な動きが、前述のクーデターへの恐れにつながっているのだ。なぜか。エルドアンには、カリフになろうとしている疑いがある。

カリフとは。シーア派、スンニ派とは

ムハンマドが亡くなった後、信者たちは集団の中で一番信頼できる人物を後継者として選んだ。これを「カリフ」という。カリフとは、預言者の代理人、という意味である。ちなみに、預言者とは未来を予言する人ではなく、神の言葉を預かった人、という意味で預言者と呼ばれいてる。

このカリフを巡って、シーア派とスンニ派は袂を分かった。2代目カリフ、3代目カリフと続いていく中で、「アリー」という人物をカリフに推す人たちが現れる。彼らは「ムハンマドの血筋を引く者こそがカリフにふさわしい」と考え、その後、アリーの息子たちに付き従うようになる。この人たちを、シーア派と呼ぶ。
一方、血筋に関係なく、コーランハディースムハンマドの言行録)に書いてあることや、イスラムの慣習(これをスンナという)を守っていくことが大事だ、と考える人たちは、別のカリフを選ぶ。この人たちがスンニ派と呼ばれる。
乱暴に言ってしまうと、「誰がイスラム共同体を率いていくのか」という問題に端を発して、シーア派とスンニ派は分裂した。シーア派は「カリフはムハンマドの子孫であるべき」と主張し、スンニ派は「話し合いによって選ばれたものがカリフとなるべき」と主張した。

シーア派とスンニ派だが、断食、巡礼、礼拝などの方法に違いはほとんどない。あるとすれば、シーア派では殉死したフセインを追悼するために、アーシュラーと呼ばれる宗教行事があったり、シーア派の聖人の墓を詣でるといった習慣が見られる程度だ。基本的にイスラム教徒でない限り、基本的に外見や行動からシーア派とスンニ派を区別することは難しい。

それでは、同じイスラム教徒なのに、なぜ今日においても、シーア派とスンニ派は対立しているのか。僕はキリスト教なので、てっきりプロテスタントカトリックの様な違いを想像していた。しかし、宗教的な対立だけでは、今日の争いの原因を説明できない。
イランにおいてのみ、シーア派が政権をとり国家を運営しているが、それ以外の地域(バーレーンアゼルバイジャン、シリア、レバノン、湾岸諸国、イエメン、アフガニスタンなど)で政権を握っているのはずっとスンニ派だった。
シーア派は政治的には少数派。経済的・政治的に劣勢に立たされている現状を打破するために、団結して反政府活動をおこなっているシーア派を、スンニ派政権は驚異とみている。

また、なぜかシーア派の人たちは石油資源が豊富なところに大勢いる。この石油のためにスンニ派とシーア派の対立が生まれやすくなっていることも関係していると言えるだろう。単純な宗教対立ではなく、「この土地は誰のものか」「この石油は誰のものか」という争いが、対立の本質を表している。

中東のキープレイヤーたち

アラビア語を使うスンニ派アラブ諸国
ペルシャ語を話すシーア派のイラン
アラビア語を話すシーア派のアラブ人
スンニ派だが、トルコ語を話し、民族意識も強いトルコ(大世界史 p.32)
つまり、
宗派「スンニ派 or シーア派」、
言語「アラビア語 or ペルシャ語 or トルコ語」、
国「アラブ諸国 or イラン or トルコ
のいずれかに分類される。

アラブの春」以降、アラブ世界は分裂と混乱が広がっている。これに乗じて、非アラブのイランとトルコが、帝国として自らの影響力を拡大するチャンスと思い始め、拡張主義的政策を取っている。
イランには「ペルシャ帝国」、トルコには「オスマン帝国」としての記憶がある。最近の核協議に代表されるようなイランの動きや、100以上ものモスクを建設して、露骨にイスラム化政策を進めるトルコを見ていると、冒頭にあったように、帝国復興の動きがあることが分かる。

行動科学で明らかになっているように、人の行動には動機が因果関係として存在している。動機があってこそ、人は動く。動機は思想や宗教、歴史、イデオロギーなど、様々だ。だからこそ、過去にどういった歴史があったかを勉強すると、現在のニュースが立体的に浮かび上がってくる。
それこそが本書を読んだ一番の収穫だった。

※出典
池上彰佐藤優(2015) 『大世界史 現代を生きぬく最強の教科書』 文春新書.
世界史の窓 「オスマン帝国」 <
http://www.y-history.net/appendix/wh0803-009_1.html#wh0803-009_0 > 2015年12月12日アクセス
academyhills(2012)「池上彰が紐解く、アラブの今と未来」<
http://www.academyhills.com/note/opinion/12091004ArabIkegami.html > 2015年12月12日アクセス
岩永尚子(2014)「教えて! 尚子先生 イスラム教・スンニ派とシーア派の違いは何ですか?」 <
http://diamond.jp/articles/-/55770?page=2 > 2015年12月12日アクセス