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書評や妄想、ショートショート、エッセイなどを書きたいです。基本的にフィクションです。

【短編小説】目に見えない⑤

「どうしたら良いと思う?」
 下北沢のファミレスのボックス席で、僕は小澤に尋ねた。
「なにを?」
「だから、リサの浮気に対して、僕はどうすればいいのかな」
「どうもこうも、許してもらったんだから、もう良いんじゃねーのか?」小澤は面倒くさそうに言った。

 何かが違う気がする。確かに僕はリサの機嫌を損ねて、そして、許してもらった。しかし、それは単にリサの浮気を問いつめただけであって、怒られる筋合いなどなかったのだ。僕の価値観が間違っているのだろうか?浮気はたいした問題ではなく、盗聴器をしかけるほうが倫理的に問題なのだろうか?
「やっぱり、盗聴器をしかけたのは、まずかったかな?」
「さすがに、盗聴器は、ないな」
 いよいよ、自分の価値観に自信が持てなくなってきた。僕が全面的に悪いのだろうか?
「しかし、3Pかぁ」小澤は楽しそうに、口元を緩めた。こいつに相談したことが、そもそも間違っているのかもしれない。
「本当はさ」小澤は身を乗り出して言った。
「去年、おまえの彼女とマユコと4人で飲んでいた日、4Pをしようとマユコに提案したんだ」
 リサと初めて会った夏の日、小澤がマユコに耳打ちしていた姿を思い返した。あれは、ホテルへの誘いではなく、4Pの誘いだったのか。それはマユコも、そんなつもりじゃなかった、と言いたくなるだろう。やりたかったなぁ4P、と、小澤が大声で嘆いた。隣のテーブル席に座る女性がこちらを見た。彼女の向かいに座る男性2人は少し気まずそうにしていた。
「そんなことじゃなくてさ」リサの浮気のことを相談したいのだ。
「そんなことって。浜野、4Pしたくなかったのかよ?」
「そりゃ、できることならしたかったよ」
「やっぱりしたいんじゃねーか」小澤はかっかっと笑った。下品な破裂音が店内にこだまする。
「盗聴器は、そんなにまずいかな?」
「まずいに決まっているだろ。お前、なんでビデオカメラで撮らなかったんだよ?」
「はぁ?」
「音声しかないなんて、まずいだろ。つまらなすぎる。浜野、音しか聞こえない花火大会とか、見たことあるか?」
「ないよ。音しか聞こえない花火大会だったら、そもそも見ようがないじゃないか」僕は力なく言い返す。
「だろ?それを分かっているのに、お前は盗聴器を仕掛けたんだ。問題は、そこなんだよ」
「小澤。問題は、そこじゃないよ」
 僕はため息をついて、小澤に時間を割いてもらったことへのお礼を言い、勘定をテーブルの上に置いて店を出た。小澤に相談したことが間違いだった。
 僕の価値観は、間違っているのだろうか。彼女の不貞を疑い、盗聴器をしかけた。そのことを彼女に、避難された。小澤には、ビデオを撮らなかったことを避難された。
 夕暮れの下北沢は黄金色に染まっていた。心なしか、日の入りが早くなったような気がする。駅の北口、ピーコックの前をとぼとぼと、往来を避けながら、力なく歩いた。左手に、工事現場を隠すように、大きな白い壁がついたてのようにそびえていた。
 リサは、僕のことをどう思っているのだろうか?初めて会ったあの日から、彼女の感情がどうにも読めない。興味がなさそうな素振りを見せたかと思えば、そっと手を握ってきてくれる。僕をぞんざいに扱っているかと思いきや、黙ってついてきてくれる。元来併せ持つジェットコースターのような感情の起伏に加え、男を惑わす天性の魔性が、彼女の気持ちをより一層、不可解なものにさせているのだ。気持ちが見えないことで、こんなにも不安になるなんて。
 突如、背後から荒い息づかいが聞こえたかと思うと、僕のすぐ横を若い男が全速力で駆け抜けた。ひゅっ、と風が切れる音が聞こえたかと思うと、驚く間もなく、すぐにもう1人の男が続いた。先頭を走る男を追いかける形で、小さなおじさんが疾走していく。あまりに突然の出来事に、何が起こっているのか分からないまま、二人は消え去った。きちんと見ていなかったが、先頭の若い男は助けてと叫んでいるように聞こえた。小さなおじさんは、アスパラガスを手に持っていたような気がした。緑黄色野菜独特の匂いが、余韻とともに辺りに残った。「ねえ、いまのって」周囲がざわついた。
 そのとき、どん、と大きな音が後方で鳴った。続けざまに、どん、どんと二、三発、腹の底に響く音が薄暮の空に轟く。僕は振り返り、空を見上げるが、工事現場の白い壁に遮られて、何も確認できなかった。
「花火だよね?」駅の北口にたむろする若者たちが、本来そこにあるべき、空に瞬くはずの煌めきを確認できないまま、壁の向こうの空を見上げて首を傾げていた。その間も、花火とおぼしき轟音はどん、どんと続いていた。
 前方で小さな男の子が、嬌声をあげた。「はなびー!あがれー!はなびー!あがれー!」見えない花火にはしゃぐ小さな子供を、微笑ましく見守る子供の両親の、柔らかな笑みが印象的だった。
 ふいに、リサの言葉を思い出した。「その男たちはアレよね、花火みたいなものよね。一瞬の煌めきで私を喜ばせてくれるの。でも、次の瞬間にはもういないわ。目に見えないの。次の瞬間には存在自体が、もうないのよ。だから浜野くんは何も心配いらないの」
 そして、小澤の言葉を思い出した。
「本当に大切なものは、目に見えないって言うだろ」正確には、星の王子様の言葉だ。
 僕は、まだリサの中に存在しているのだろうか。