【短編小説】目に見えない②
◆2章◆
小澤は僕と同い年で、つまり25歳で、大学時代からの友人だ。この粗野で我侭で、強引な男とどこで馬が合ったかわからないが、大学を卒業して社会人3年目となった今でも、たまにこうして顔を合わせている。
僕は紙ナプキンで口元を抑えながら、小澤の顔をまじまじと眺めた。顔の輪郭は丸々とし、顎が二重に見えるほど、首周りに豊かな贅肉をたたえている。つぶらな瞳には冷たさが宿り、愛嬌とはほど遠い、泥川のような闇を携えていた。
お世辞にも整っているとはいえないその顔で、小澤はよくキャバクラに赴いた。彼の屈折した趣味のひとつに、キャバクラの従業員、つまりキャバ嬢を口説き落とすことがある。そして不思議でたまらないのだが、行く度に、かなりの確率で、キャバ嬢を口説き落とす事に成功しているのだ。
「女は結局、金と、強引さだよ」とは彼の口癖で、学生時代から親の金を使い込んでは、日夜、淫逸な遊興に勤しんでいた。そして僕も、稀に、本当に稀にだが、小澤のお遊びのおこぼれに預かる時があった。
リサと出会ったあの日も、小澤と二人で渋谷のキャバクラに行っていた。今日と同じように蒸し暑い、一年前の夏の日だった。小澤がいつもそうしているように、羽振りの良さをさんざんひけらかした後、僕らのテーブルについていた、マユコという化粧の派手な女性を誘った。マユコは快諾し、キャバクラ閉店後に、明け方近くまで開いている近くのお店で飲むことになった。
リサはその日、体験としてキャバクラで働いていた。たまたま、リサとマユコの仲が良かったため、たまたま、リサは僕たちについてきた。
「面白そうだったから」とリサは真顔で言っていた。彼女の、小澤を真っすぐに見据える屈託ない表情からは、ある思いが読み取れた。なぜ小澤のような男がこうも容易くキャバ嬢を、しかも自身の友人を、外に連れ出す事に成功したのか。目の前に現れた、解明すべき難題に、面白みを感じている様子だった。
小澤にしても、リサのような化粧の薄い清楚な女性は好みではなく、厚く化粧を塗りたくった、明るい髪色の女性に昂る傾向があったため、リサの好奇の目を特に気にする素振りも見せず、隣に座らせたマユコに熱心に語りかけていた。
僕ら4人はソファ席に向かい合う形で座っていた。黒い牛革のソファで、一点に体重をかけると、その箇所から山あいのようにこんもりとした凹凸が放射状に伸びていく。僕はすぐ隣に座るリサを頻繁に盗み見た。彼女はキャバ嬢と思えないほど控えめな化粧をしていたにも関わらず、きらびやかで多彩な女性が蠢めいていたキャバクラの中でも、その美しさはひときわ目立っていた。薄暗い店内の中、僕は温もりさえ感じる程の距離に座るリサをもう一度盗み見た。ノースリーブの肩にまで垂れた艶のある黒い髪、その間から、透き通るように白い首筋がのぞく。真ん中で分けられた前髪は、すーっと線が引かれたように伸びる二重まぶたの魅力を一層引き立てていて、その非人工的な曲線美に目を奪われそうになった。
視線をごまかすように向かいに座る小澤を見ると、彼はよっぽどマユコを気に入ったのか、こちらに話題を振る気配は微塵も見せず、鼻の下を伸ばしたままかっかっと笑っていた。
「浜野くんは、あの小澤って人と、仲良いの?」
リサが小指の爪をいじりながら聞いてきた。
「仲が良いとは思っていないけど、なんだかんだ一緒にいるね」僕もつられて、用もないのに小指の爪を親指で擦った。リサは顔も上げず、小指を見つめたまま、興味なさそうに、ふーん、と相槌を打った。
「小澤は、寂しいやつなんだよ」途切れそうになった会話の溝を咄嗟に埋めようと、深い考えも無しに僕は言った。
「ああ、それは、なんとなく分かる」
リサは小指をいじるのを止め、顔を上げて小澤をちらりと見ると、そのまま顔を横に向けて、隣に座る僕を見た。なんとも眠たげな顔をしていた。
「結局、金でしょ?」と呟くと、彼女ははぁっとため息をついて、ソファの背に勢い良くもたれかかった。「つまんない。リサ、半身浴したい」
僕は苦虫が口に湧いたような気分になり、応えに窮した。言いたいことを自分の好きなタイミングで言ってしまうような女性は苦手だった。全ての会話を自分のペースに持ち込んでしまう人への対応に、僕はいつも苦心していたのだ。なぜ急に半身浴がしたくなったのか、そして何故それをこの場で言ってしまうのか、理解できなかった。
「半身浴は、気持ち良いもんね」
僕は相手の機嫌を損なわないように、慎重に返事をした。
「リサちゃんは小澤がお金持ちってこと、知っていたの?」
「知らなかったけど、なんとなく分かっちゃった。さっきから自慢話しかしてないんだもん。そういう人って、自分が持っているもの、ひけらかすのよ。マユコも、なんであんなのが良いんだろうなぁ」
リサは、はたして小澤にどんな隠れた魅力があるのか解明したかったのだろう。それが、結局は単なるお金持ちということが分かり、途端に小澤への興味を失ったように見えた。
「まあ、お金も、大事なんだけどね」リサはぽつりと呟く。
「そうなんだ」
「浜野くんは、そういうの、興味なさそうだよね」
「そういうのって?」
「お金とか、女とか、ジャラジャラしたものとかギラギラしたもの」
「そうかな」
「オクテそう」
「僕だって」少しムッとなって、僕はリサをまじまじと見つめた。「セックスくらい、するよ」
リサは声をたてて笑い。
「そんなムキにならないでよ。童貞だなんて言ってないじゃん」と、僕の肩を叩いた。僕は恥ずかしくなって、何か話題を変えようと思い、リサの胸元に光るネックレスを見つけて、似合うねといった。
「似合うでしょ」と、リサは得意げに返した。
「うん、とっても。高かったんじゃない?」
「高いよ、たぶん。分かんない、買ってもらったから」
「誰に?」とたずねると、リサはぷっと噴き出した。
「浜野くん、そういうことは、普通、聞かないもんだよ」
「え、ごめん」
「いいんだけどさ。高かったんだぞ、ってくれた人が言っていたから、多分高いんだと思う。それに」リサは続けた
「それに、安かったら、私には似合わないから」
凛とした表情から、冗談で言っているわけではないことが伝わってきた。かといって、鼻にかけるようなおごりもない。僕はこの人を苦手だと思った。率直に、くぐもった嘘をつくことなく、本心をひけらかして来る彼女は自分と遠くかけ離れている存在だと思った。一方で、山の向こうの景色が気になるように、もうすこし彼女のことを知ってみたいとも思った。
小澤を見ると、ニヤニヤしながらマユコの耳元で何か囁いていた。大方、ホテルにでも誘っているのだろう。マユコは少しうんざりした様子で「えーそんなつもりじゃなかったぁ」と気だるい声を発した。すると小澤の形相が一変した。
「じゃあどういうつもりだったんだよ!」低い声で唸り、拳をローデーブルにどん、と叩き付けた。小澤の突然の豹変にマユコはたじろぎ、おののいた様子でいたが、「だって、あと1時間しかないし」と声を若干震わせながら弁解していた。僕は腕時計を見た。終電はとうに過ぎている時間で、何があと1時間なのか、よくわからなかった。
「1時間もあれば十分なんだよ」
小澤は立ち上がり、強引にマユコの腕をひっぱり、店から出て行ってしまった。何が1時間あれば十分なのかよく分からなかった。が、きっとそういうことなのだろう。
小澤とマユコがいなくなると、がらんとした空間に取り残されたような気分になった。他にも数名、客がいたのだが、とたんに静かになってしまったように思えた。僕とリサは顔を見合わせ、さて、これからどうしましょうかと言わんばかりに、無言のうちに語り合った。
【短編小説】目に見えない①
◆1章◆
「フェラをした直後にキスをせがんでくる女の神経が理解できない」
小澤はほとんど残っていないアイスコーヒーの底を、ストローでズーズー吸い上げながら言った。子鹿のようにつぶらな冷たい瞳で、こちらを上目遣いに見てくる。
僕は小澤の下衆な発言に呆れたが、考えてみれば、これまで小澤から下衆な発言しか聞いた事がなかったので、そのぶれない姿勢というか、一貫した下衆さには何故だか感心させられた。
下北沢の駅前、雑然としたファミレのボックス席に、僕と小澤は向き合って座っていた。隣のテーブル席には男女三人が軽やかに談笑している。男性二人と女性一人。その構成に、僕は吐き気を覚えた。先日の悪夢が蘇ってくるようだ。
「舐められているのは自分のものなんだから、別に構わないじゃないか」僕は声の大きさに気をつけながら言った。
「浜野、おまえ、女みたいなこと言うな。俺にはおまえのその発言が信じられないよ。自分のものだろうがなんだろうが、汚物を排出する器官を咥えたその口で、人さまの唇を吸おうなんて、デリカシーのかけらもないと思わないか?相手に対する思いやりとか、相手の立場に立って考える姿勢とか、ないのかね。理解できないよ」
そう言って小澤は、テーブルに備えてある紙ナプキンで脂肪を蓄えたお腹の汗を乱暴に拭き、くしゃくしゃに丸めて隣のテーブル席に座る女性の足下にぽいっと放った。
足下に転がってきた汚れた紙ナプキンに気付いた隣の女性は、眉をひそめて、露骨に小澤を睨んだ。
「その言葉をそっくりそのまま、小澤に返すよ」
僕は小澤に代わり、こちらを睨んでいる隣の席の女性に会釈をして謝意を表した。女性の向かいに座る男性二人は突然の僕の会釈に驚き、怪訝ではないものの、不思議そうな顔をしていた。
「浜野は女に対して優しすぎるんだよ。どうせ、フェラした口でキスを迫られても拒否できねーんだろ」
「そもそも拒否しない」
「うそつけ。自分の竿が目の前で咥えられているのを見ているんだぞ?間接的に自分の竿とキスするなんて、耐えられるか?」
「そんなに気にならないなぁ。小澤が気にし過ぎなだけだよ」
「うそつけよ。咥えられているのを目の前で見ているんだぞ?」
小澤の声が次第に熱を帯びてきた。また、隣の席の女性がこちらを見ている気配がしたが、今度は無視をした。
「咥えられているのを見なければいいのか?」僕は訊ねた。
「そうだな。見なければ、別にいい」
「えっ」
「目隠しをされている状態なら、別に気にしないな」
「なんだそれ」僕は呆れてつぶやいた。
「なんだそれって、なんだよ。俺はこう見えても、目隠しされるのが好きなんだよ」
「知らないよ。この上なく、どうでもいい」
「浜野、俺の性癖に興味ないのか?」
「あるわけないだろ、気持ち悪い。目隠しされていたらフェラの直後にキスをされても大丈夫なのかよ」
「そりゃあ、おまえ、見えてないんだから大丈夫だよ。フェラされているのが見えてないんだから、あんまり気にならないだろ?」
「よくわかららない」
僕はボックス席の背もたれに身を投げた。小澤はしょっちゅう、よく分からない屁理屈ばかり並べる。
「ほら、言うじゃねーか。本当に大切なものは、目に見えないって」
「いろいろと違う気がするし、星の王子様の名言を卑猥な引用に使わないでほしい」そう言ってから僕は、冗談半分で、「そんなことを言っていると、アスパラおじさんに追いかけられるぞ」とつけ足した。
小澤は思いのほか食いついてきた。
「なんだ、アスパラおじさんって」
「知らないの?アスパラガスを持って街中を全力で疾走する小さなおじさんだよ」
「知らねーよ」
「いま、話題なんだけどな。みさかい無く、人を追いかけるらしいんだ。すごくちっちゃいのに、とんでもなく足が速いから、一度追いかけられると、ほとんどの場合、捕まっちゃうんだって」
「本当かよ。捕まると、どうなるんだよ」
「速すぎて、誰も捕まったところを見ていないんだ」
「なんか怪しいな。どこで話題になっているんだよ」
「下北沢で話題らしいよ」
「らしいよってなんだよ」
「リサがそう言っていたんだ」
「いつ?」
「こまかいなぁ。僕がキスを拒んだときにリサが言っていたんだよ」浜野くんなんてアスパラおじさんに追いかけられちゃえ、と言われたことを思い出す。
「浜野がキスを拒んだのか?」
「うん」
「なぜ?」
「フェラをされた直後だったから」
「おまえも拒んでるじゃねーか」
小澤はかっかっと笑った。口を大きく開けて喉の奥から破裂音を響かせる笑い方をするから、本当に「かっかっ」と聞えるのだ。下品な笑い声を店内に響かせた後、小澤はコップに残っていた氷を一気に口へ放り込んだ。
「まあ、浜野は悪くねーよ。フェラした直後にキスを求める女がどうかしているだって。そんな女、アスパラおじさんのアスパラガスでもしゃぶらせておけばいいんだよ」
「おい、やめろよ」僕はぴしゃりと言いつつも、2本のアスパラガスを咥えるリサを想像して、再び吐き気を催した。
続く
【書評】ティファニーで朝食を(トルーマン・カポーティ)
あらすじ
第二次戦下のニューヨークで、居並ぶセレブの求愛をさらりとかわし、社交界を自在に泳ぐ新人女優ホリー・ゴライトリー。気まぐれで可憐、そして天真爛漫な階下の住人に近づきたい、駆け出し小説家の僕の部屋の呼び鈴を、夜明けに鳴らしたのは他ならぬホリーだった・・・。
感想
冒頭に主人公とバーのマスター(ジョー・ベル)の会話が繰り広げられる。
主人公はジョー・ベルから、ホリー・ゴライトリーがアフリカにいた(かもしれない)という情報を聞く。
この短いエピソードから、発見者であるカメラマンのユニオシ氏やジョー・ベルがいかにホリーを愛していたかわかる。それは男女の愛に限らず、我が娘を愛すような、広い愛に感じられた。
(ユニオシ氏は作中ではホリーのことを煙たがっているように描かれていたが、
翻って「結局みんな」ホリーのことが好きなのだと思うと、余計に彼女の魅力が際立つ)
こんなにも魅力的な女性ヒロインは滅多にいないのではないだろうか。
なぜ、自由気ままな女性というのはこうも男性を魅了するのだろう。
主人公の気持ち
ホリーと主人公の関係は結局「友達」だったのだろうか。
ホリーはその気ままな奔放さ故、何を考えているかわからない節があるが、
その実、行動は猪突的とも取れるもので、裏を返せば至極素直な性格なのかもしれない。
裏表や深い考えがなく、ホリーの取る「行動」こそが彼女の本心だとわかる。
本当に分からないのは主人公である「僕」の方だ。
主人公はホリーのことを本当に愛していたのか。
ホリーがプレイボーイの富豪「ラスティー・トローラー」と結婚したと早とちりした時にはそのまま地下鉄に轢かれてしまいたいような気分になっていたほど彼女の事を想っていた。
それが、ホセと結婚する、と言い出すホリーを前にしたときには、主人公の心境は淡々としたものだった。
特に胸を刺すような描写も記述も無く、物語は進んで行っていた。
だが、二人で乗馬をしているときに彼の本心が見えてくる。
彼女が急に愛おしくなって、自分を憐れむ気持ちなんてどこかに消えてしまった。
そして彼女にとって幸せと想えることがこれから起ころうとしているのだと思うと、満ち足りた気持ちになった。
主人公は彼女を本当に愛しているからこそ、その幸せを切に願う。本当に願う。
幸せになれるなら、ホセと海外にでもどこにでもいって、幸せになってほしいと。
まとめ
無駄の無い洗練された文体に、無秩序に揺れ動く少女の感情が乗っかっているのが対照的だった。
どうやったらこのような文章が書けるのだろうか。
カロリーを消費することなく、しかし確実に描かれる主人公のホリーへの気持ちは、
特に最後のページに染み込んでいるようだった。
ブラウンストーンの建物を僕は出ていくつもりだった。そこにはあまりに多くの思い出がしみ込んでいたから。
青春小説の金字塔!【書評】横道世之介 (吉田修一)
概要(あらすじ)
大学進学のため長崎から上京した横路世之介18歳。愛すべき押しの弱さと隠された芯の強さで、様々な出会いと笑いを引き寄せる。友の結婚に出産、学園祭のサンバ行進、お嬢様との恋愛、カメラとの出会い・・・。誰の人生にも温かな光を灯す、青春小説の金字塔。
感想
構成の妙、人物造形の熟練、小気味好い会話。青春小説に欠かせない要素を高い次元で満たしている金字塔たる小説。
著者の他の作品を読んだことは無いが、世之介を視点にカメラを置いたシナリオライティングに近い進行方法は、恐らく普段とは違った文体なのだろうなと邪推した。映像を意識しているような情景の切り取り方に若干のわざとらしさを感じる一方で、視点を他の登場人物に置いた時の文章の語り口は滑らかで自然だった。
様々なシーンで、いよいよ盛り上りを見せるといった場面でストンと流れが切れて急に未来の話になり、その後、過去を振り返るように出来事を説明する手法が多用されていた。手法自体は嫌いではないのだが、毎回そのパターンが繰り返されてしまうと、少し興ざめというか、物語に「熱中する」に至らなかった。
ただし、構成はさすがというか、「ここで挿んでくるか」と意外な箇所で登場人物たちのその後の生活が描かれていて、ふとした隙間を突くように世之介の存在が顔を出す。一貫してぶれないのが、世之介と関わった人たちは全員、その当時のことを幸せに思っていること。最後は母親の家族愛を存分に感じられて、世之介の太陽のような魅力こそが作品を通して著者が伝えたかったことなのかな〜と思った。
まとめ
言ってしまうと、さして大きな出来事が起こる訳ではないし、息をのむような展開があるわけでもない。ぽかぽかと穏やかに世之介とその周りの人生がゆったりと流れて行く、そんな物語だ。そしてその平穏な流れこそが、世之介の魅力を存分に引き出している。
読んだ後にほっこりする、学生時代の長期休暇中に読みたくなる本!
【書評】サラの柔らかな香車 (橋本長道)
プロ棋士になる夢に破れた瀬尾は、毎日公園に一人でいる金髪碧眼の少女サラに出会う。言葉のやりとりが不自由な彼女に対し、瀬尾は将棋を教え込む。すると、彼女は盤上に映る”景色”を見る能力を開花させ—。将棋に新たな風を送るサラ、将棋に人生を捧げてきたスター・塔子、数多の輝く才能を持つ七海の三人を巡り、激しくも豊かな勝負の世界を描く青春長編。
人間みたいな神様...【書評】いちばんわかりやすい北欧神話 (杉原梨江子)
概要
古代の北ヨーロッパ・ゲルマン世界で育まれた神々の物語は、
アイスランドで『エッダ』『サガ』として豊かに保存され、
欧州各地の数々の文学作品の礎となった。
北欧神話と僕
ロードオブザリングが一番有名だろうか。
北欧神話は数々の映画やゲーム、小説などの原点となっているので、常々、きちんと読んでみたいと思っていた。
北欧神話については以前に小難しい内容の本を買って読んでみたのだが、
僕の理解力ではいささか小難し過ぎたので数ページだけ読んだ後に寝かせてしまっていた。
そんな折にたまたま書店で見かけたのが本書。
題名通り「いちばんわかりやすい」と銘打っていたので、
それなら読解力の乏しい僕でもなんとか分かるだろうと思って手に取った次第である。
感想
非常に分かり易かった。
記憶力の乏しい僕のために同じエピソードを何度も織り交ぜて
全体を俯瞰して説明してくれたおかげで、
北欧神話の概要をなんとなくつかめたような気がする。
ご丁寧に神々の関係図まで挿れてくれているので、本当に分かり易い。
たまに散見される著者の意見が根拠に基づいた学術的主張なのか、
単なる主観なのか分かり兼ねる部分があったが、入門としての北欧神話や、
触りだけを学ぶのであればおすすめだ。
日頃慣れ親しんでいる曜日のいくつかは神々の名前から取られた名称とのこと。火曜日【Tuesday】は戦いの神テュールの日、水曜日【Wenessday】は主神オーディンの日、木曜日【Thursday】は雷神トールの日、金曜日【Friday】は愛と豊穣の女神フレイヤの日。
神話の中でのみ躍動する、遠い存在のはずの神々が、
こうして僕らの日常に根付いている事を思うと、実に神秘的な気分になる。
とたんにファンタジーが現実世界に紛れ込んできたような、
初めてプレイする大作RPGの画面に見入っている瞬間のような昂揚感が沸き起こる。
神々について
神と呼ばれ、崇拝や畏怖の対象となっているものの、
彼/彼女らの性格や行動は欲望に忠実で、いたって人間的である。
寝ている人の髪の毛をばっさりと切り落とすイタズラを仕掛けたり、
欲しいもののために好きでもない男と寝る事を厭わなかったり。
自分に忠実で、気持ちのいいほど本能のままに生きている。
神話ならではなのかもしれないが、
所々矛盾点があり、理解に苦しむ関係図もあった。
例えば、巨人とアース神族は仲が悪いのに、
巨人のロキはアース神族の主神オーディンと多くの行動をともにしている(ように見える)。
こういったものは神話を勉強して、
深堀を続けて行けばいずれきちんとした説明にたどり着くのかもしれない。
まとめ
神々と巨人との生死をかけた壮絶な戦いにより、
主要な神々はすべて滅んでしまう運命にあるのだ。
しかも神々はさまざまな前兆的な出来事や予言により、
自分たちの未来に死が訪れる事を知っている。
回避しようとしても抗えない運命がそこにはある。
悲劇的未来を受容する生き方が「滅びの美学」を貫く神話といわれる所以なのだろう。
「ルーン文字」の一部が今も実際に使われているという。
魔術、神々、ラグナロク。滅びの運命にある物語には、
どこか刹那的な生き方を感じる。
北欧の人々は自然の厳しさとの戦いを、
神話に置き換えて今日まで残してきたのかもしれない。
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【書評】バイバイ、ブラックバード (伊坂幸太郎)
あらすじ
星野一彦の最後の願いは何者かに<あのバス>で連れていかれる前に、五人の恋人たちに別れを告げること。そんな彼の見張り役は「常識」「愛想」「悩み」「色気」「上品」ーこれらの単語を黒く塗り潰したマイ辞書を持つ粗暴な大女、繭美。なんとも不思議な数週間を描く、おかしみに彩られた「グッド・バイ」ストーリー。
感想
僕は伊坂幸太郎の大ファンで、彼の著作はほとんどと言っていいほど
読んでいるのだが、本書はこれまでの作品と違う趣が楽しめた。
5股をかけた主人公(星野)が<あのバス>に連れ去られる前に
5人の女性に別れを告げてまわるストーリーを、1話完結型で
5回に分けて描いているのだが、これが、回を追うごとにどんどん面白くなっていくのだ。
巻末のインタビューで著者は自身の作品の面白さを、こう分析していた。
伊坂作品の、ちょっと変わったキャラクターがいてそれに振り回される人がいて、登場人物達のやりとりが楽しくて、いろんなところに張ってある伏線が少しずつ繋がっていき、要所要所で「ああ、そうなんだ」とはっとする感じ。
自身の作品をこれほどまでに客観的に見れているなんて!
世間が求める伊坂幸太郎作品を的確に知りつつ、
それを書くことに楽しみを覚える。まさに生粋の作家なのだな、と感心してしまった。
そして、その伊坂イズムというべき面白さは
本書にもいかんなく発揮されている。
繭美の破壊的なキャラクター(マツコデラックスを想像された人も多いのでは?)
かと思えば純粋すぎるほどに素直な主人公の星野くんは様々な女性を(意図せず)振り回している。
星野くん(君付けで読んでしまいたくなるようなキャラなのだ)の人柄も、
回を追うごとにどんどん魅力的に映ってくる。
その素直さゆえに、ついつい5股の関係に陥ってしまったことも、致し方ないように思えてくる。
しかし、この作品はどうだろう。上記の伊坂イズムは随所に見られつつも、
本質的なテーマがなかなか見当たらない。
けれど、存在しないわけではない。見つけにくいだけなのだ。
もしかしたら、ラストから、読者一人一人の物語が始まることが、テーマなのかもしれない。
この小説が(ゆうびん小説とあるとおり)文字通り読者への手紙なのだとしたら、
この小説を発端に、読者ひとりひとりの何らかの物語が始まっていく。
例えば、繭美が主人公を助け出す、という物語が読者ひとりひとりにあってもいい。
「別れたくないからね。別れても、別れないんだから」
石原さとみに言われたい!!